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浅野さんへの電話やLINEは徹底的に無視され、会社で会えば最低限の挨拶だけをして避けられる。自業自得なのだけど、気持ちが通じていたときとあまりの態度の違いに苦しくなる。



フロアに響く内線の音にも相変わらず店舗管理課の社員は無視を決め込んでいる。鳴っているのは浅野さんのデスクなのに、本人が席を外しているからか誰も出ない。仕方なく私が代わりに受話器を取った。

「はい、企画管理課の足立です」

「あ、総務部の北川です。お疲れ様です」

「お疲れ様です」

内線の相手は総務部の女の子だ。

「店舗管理課の浅野さんは席にいらっしゃいますか?」

「すみません、今席を外しているみたいです。多分すぐに戻ってきますよ」

「そうですか……あの、足立さんで構わないのでお伺いしたいのですが」

「はい」

「浅野さんは昼間も仮眠室を使っているのでしょうか?」

「え?」

社内には簡易ベッドが置かれた二畳ほどの部屋を仮眠室として利用できる。隣り合わせで2部屋あり、申請すれば社員が誰でも使うことができた。

「浅野さんから仮眠室の使用申請が出ているのですが、夜だけじゃなくて今も誰かが使ってるみたいなんです。さっき私が前を通ったら使用中の札が出ていたので、浅野さんかなと思いまして……」

浅野さんが仮眠室を使っていることすら知らなかった。仮眠室は基本的には夜間作業をする社員しか使わない。いくら店舗を複数担当してるからって家に帰れないくらい忙しいのだろうか。

「では私の方でも確認して総務部にご連絡しますね。忙しくて疲れているのかもしれませんし……」

そういえば顔色も悪かった気がする。体調が悪くなって休んでいるのかもしれない。

「お願いします。使用申請書も出し直していただけると助かります」

「伝えておきますね」

「ついでですみませんが、就業時間外申請書と領収書もまだいただいてなくて……」

申請書の提出期限を過ぎてもどれだけ溜めているのだろう。浅野さんにしては珍しいことだ。

「すみません……私から言っておきますので……」

「よろしくお願いします。退職までには処理したいので」

「退職? 北川さん退職するんですか?」

「いいえ、私ではなく浅野さんが退職願いを提出したようです。先程総務部長に回ってきました」

「え!?」

思わず大きな声を出して驚いてしまった。浅野さんが退職するなんて聞いていなかったから。

「えっと……レストラン事業部では皆さんご存じなのかと思っていたので……すみません突然」

電話の向こうで北川さんが謝る。

「いえ……お手数おかけしてすみません…」

受話器を置くと立ち上がった。念のため仮眠室を覗いてみようと思った。
退職なんて聞いてないし、浅野さんが書類の期限を守らないなんて何かがおかしい。





非常階段の横に設けられた仮眠室は人の出入りの少ない倉庫の横にあり、通路の空調の音が聞こえるほど静かだ。
通路の角を曲がれば仮眠室に行けるというとき、突然角から今江さんが曲がってきた。

「あっ」

角を右に曲がりたい私と、左に曲がってきた今江さんがぶつかりそうになった。

「ごめんね……」

「す、すみません……」

今江さんは顔を赤くして息を乱していた。

「大丈夫?」

目も潤んでいるように見えた。何かあったのかと心配したのだけど「大丈夫です!」と今江さんは私の顔を見て怒鳴るように言い、横を抜けて慌てて通路を歩いていった。
今江さん、こんなところでどうしたんだろう。この先は仮眠室しかないのに……まさか……。
嫌な想像を頭から振り払った。

仮眠室2部屋のうちの右の部屋は確かにドアに『使用中』のカードがかけられ、鍵がかかっているようだ。浅野さんが使用しているのだろうか。
コンコンとドアを軽くノックした。

「すみません……浅野さん?」

中から人の動く気配がして鍵がはずされた。ドアが少しだけ開くと隙間からメガネを外した浅野さんが顔を出した。

「なんだ……今度こそ君か……」

私の顔を見た浅野さんは途端に冷たい顔になった。

「あの……」

心配した気持ちが冷たい表情と声を受けて萎んでしまう。浅野さんは私なんかの顔を見たくもないということなのだろう。

「何?」

「あ、あの……大丈夫ですか?」

隙間からでも分かるほど顔色が悪い。

「別に。君には関係ないでしょ」

そう言われることは予想していた。けれど実際に体調が悪そうなのを見たら引けるわけがない。

「風邪ひいたんじゃないですか? 具合悪そうですよ」

「………」

何も言わずに私を見返す。

「早退した方がいいんじゃ……」

「構わなくていいから仕事に戻って」

ドアを閉められそうになったから、思わず手でドアを押さえてしまった。

「何してるの。手をどけて」

「でも……」

迷っていると突然ドアにかかる力が弱まった。隙間から見える浅野さんがふらついた。

「浅野さん!?」

強引にドアを開けて中に入った私は浅野さんの体を支えた。

「大丈夫……だから、仕事に戻って……」

「全然大丈夫じゃないですよ。お水持ってきますか?」

「いや……さっき持ってきてくれたから……」

浅野さんの視線の先には簡易ベッドに無造作に置かれたメガネと緑茶のペットボトルがあった。さっき今江さんとすれ違ったのはこのペットボトルを持ってきたからかもしれない。

私は浅野さんを簡易ベッドに寝かせた。額に触れると明らかに熱があるようだ。

「浅野さん、もう帰った方がいいです。熱がありますよ」

「うん……」

「迎えに来てくれる方はいますか? ご家族は?」

浅野さんは一人暮らしだ。だけど優磨くんが浅野さんの実家は城藤の家の近くと言っていたから、ここからもそう遠くはないはず。

「いや……優磨に来てもらう……」

「え?」

「家族は今隣県にいるから……」

「そうなんですか」

「美麗とだめになってから、実家は引っ越したんだ……地元には居づらくなったからね」

「………」

予想外のタイミングで嫌な話題になった。返す言葉が浮かばない。

「あの……浅野さんが退職されると聞きました。それは私がいるから居づらくなったのでしょうか?」

「………」

浅野さんは荒く息を吐くだけで答えてはくれなかった。この質問に答える気はないのだろう。

「すみません……休みたいですよね。部長には早退するって私から言っておきますから」

耐えられなくなって仮眠室を出ようとしたとき浅野さんの掠れた声がする。

「……今は動けそうにないから、少し寝たら帰る。悪いけど部長にそう伝えといて」

「分かりました……起こしに来た方がいいですか?」

「僕にそんな気を遣わないでよ」

荒い呼吸でもその言葉だけははっきり聞こえた。近づくな、関わるなと言われている気がした。

「君はもう仕事に戻るんだ」

「はい……」

私は立ち上がってドアノブに手をかけた。外に出る前に浅野さんを振り返ったけれど、一度も目を開けることなく引き止めようともしない。

「お疲れ様です」

そう言って外に出た。
今の浅野さんのそばに私がいたら体調を悪化させるだけなのかもしれない。





浅野さんは午後には早退した。
仮眠室で寝ていたからか髪を少し乱してフロアに戻ってくると、荷物を持ってフラフラと帰っていった。会社の近くまで優磨くんが迎えに来るのかもしれない。
あれ以来優磨くんとも連絡をしていないから浅野さんのことを聞きづらいし、今の状況も連絡しにくかった。



定時に退社して玄関ホールを歩いていたとき「足立さん!」と名を呼ばれて振り向くと、今江さんがホールを横切って私の元へ走ってきた。

「これ……」

私の目の前で止まった今江さんは紐のついたカードを差し出した。

「商業ビルの入館証です。浅野さんに借りたまま返し忘れちゃって」

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