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「ありがとうございました」
「こちらこそ」
マンションの前で車が止まり、助手席から降りると浅野さんも車から降りた。降りないでもいいのに、浅野さんは毎回こうして私がマンションに入るまで車の外に出て見送ってくれる。大通りを一本裏に入るとマンションやアパートばかりの住宅地にはもう人気がない。最後の最後まで浅野さんと二人きりだ。
「あ、浅野さんスマホ鳴ってます」
窓から車内に置いてある浅野さんのスマートフォンが光っているのが見える。
「ほんとだ」
ドアを開けてスマートフォンを取った浅野さんが応答しようとしたところで切れてしまった。
「あ、切れた。優磨だったし後でかけるよ」
そう言って浅野さんはドアを閉めると私を見て軽く腕を広げた。それを合図に浅野さんの腕の中に体を寄せる。
恋人未満になってからというもの、浅野さんのスキンシップの多さには驚かされる。もちろんそれはプライベートで二人きりの時だけだ。こんな浅野さんは絶対に誰も知らない。会社の人はもちろん、優磨くんだって甘える浅野さんは想像できないだろう。浅野さんに抱き締められると落ち着く。この時間が永遠に続けばいいと願う。
「お休み」
「お休みなさい」
別れのキスを交わすため顔を上げた。それが今日一日が終わる挨拶。唇が触れようとしたとき、今度は私のスマートフォンが鳴った。
「………」
「すみません……」
浅野さんの腕が私の腰に回ったまま離そうとしてくれないから、窮屈な体勢でカバンからスマートフォンを出した。
「あれ、私も優磨くんからです」
画面には『城藤優磨』と表示されている。
「じゃあいいよ。後で」
「でも、浅野さんにかけたすぐ後に私にかけてくるなんて急用かもしれません」
家族の事情でバイトを休んだことが気にかかる。嫌な予感がした。
キスを中断されて少しだけ不機嫌になった浅野さんは、抗議からかスマートフォンを耳に当てる私の反対の耳にキスをしてくる。
「もしもし美紗さん、今慶太さんと一緒ですか?」
左耳にキスをされるチュッという音と、右耳からは優磨くんの声が重なって通話に集中できない。
「うん……そ、だよ……」
浅野さんのキスはどんどん下りて首までくすぐる。こんなに甘えられてはここが外なのを残念に思った。
「大変です! 帰ってきました!」
「だれっ……誰が?」
キスの攻撃に震えてうまく声が出ない。
「姉です!」
え? 優磨くんの、姉……?
私の身体の震えが止まった。浅野さんの唇の感触は消えた。
「今日突然帰ってきたんです。家族で話し合いをしたらさっき出ていっちゃいました。慶太さんを探しているのかもしれません!」
思考が停止する。
美麗さんが帰ってきた。そして浅野さんを探している……?
「足立さん?」
「美紗さん聞いてますか?」
耳元の浅野さんの声も電話の向こうの優磨くんの声も届かない。
美麗さんが帰ってきたら、私の罪が露見してしまう……。
「俺は今車で姉を探してます。慶太さんの家の近くでは見つかりませんでした。今から思い当たる知人の家に向かうところです」
優磨くんの言葉が頭に入ってこない。
「美紗ちゃん……?」
電話のものとも浅野さんのものとも違う声が割って入った。恐る恐る声がした方へ振り向くと、マンションの前には一人の女性が立っていた。
「美紗ちゃんだよね?」
懐かしいとさえ思わないほど忘れ去られた声の記憶が急激に蘇る。
目の前に立っているのは紛れもなく城藤美麗だった。
「美麗さん……」
呟いた言葉に私を抱く浅野さんの腕が微かに震えた。
「優磨くん、私のマンションの前まで来た……」
電話の向こうにそれだけ伝えるのが精一杯だった。
「えっ、マジですか!? すぐ行きま……」
優磨くんの驚いた声が聞こえたけれど途中で通話を切ってしまった。
「探したの……美紗ちゃんを……」
マンションの玄関ホールから漏れる明かりに照らされた美麗さんは、最後に見たときよりも痩せていた。元々細かった体型は更に細くなって、着ているセーターから覗く肌は首から肩にかけて骨が浮き出ている。
「どうしてここが……?」
私の声は震えた。
「美麗?」
耳元で浅野さんの驚いた声が聞こえた。
「君は美麗なの?」
浅野さんは私から離れて一歩美麗さんに近づいた。
「慶太?」
浅野さんと美麗さんはお互いに驚いて目を見開いている。
「どうしてここに慶太がいるの?」
「美麗こそ……どうしてここに? 二人は知り合いなの?」
浅野さんの目が今度は私にも向けられる。この状況から今すぐ逃げてしまいたくなった。
「美紗ちゃん、どういうこと?」
そんなこと私が聞きたい。何で今更戻ってきてしまったのだ。
「ふぅ……」
私は気持ちを落ち着けるために深呼吸し、美麗さんを真っ直ぐ見据えた。
「お久し振りです美麗さん」
もう腹は括った。過去とけじめをつけなくては。
「どうしてここが分かったんですか? あれから引っ越したはずなのに」
私と母は美麗さんが泊まりに来ていた頃のアパートから、就職を機に目の前のマンションに引っ越してきた。この場所を美麗さんは知らないはずだった。
「美紗ちゃんが美麗の実家に荷物送ったでしょ。バッグとか服とか。その箱と伝票がそのまま残ってたの」
美麗さんと行動を共にしていたときに貰ったブランドのバッグや服を引っ越しの際に美麗さんの家に返した。それらは私が持っているべきものではないから。ほとんど未使用で、一度も開けずに袋に入ったままのものもあった。バカ正直に荷物の伝票に新しい住所を書いてしまった。それに今苦しむことになるなんて。
「LINEしても既読にならないし、電話も繋がらない。久々に連絡したから仕方がないんだけど……」
LINEで連絡をされても把握できない。それは美麗さんをブロックしてしまったからだ。忘れたかった。美麗さんに纏わる全てを。あの結婚式を思い出さないように。私の目に触れないように。
「慶太に会いたくて美紗ちゃんに居場所を知らないか聞きに来たの。親も弟も誰も教えてくれなかったから。それがここにいるとは思わなかった……」
私の手の中のスマートフォンが再び鳴った。優磨くんから電話がかかってきたけれど応答することなく無視した。今はどうやってこの状況を切り抜けるかで頭がいっぱいだった。
「なんで僕に会いに来たんだよ。捨てたのはそっちだろ?」
黙って話を聞いていた浅野さんの声はとても低い。怒りを含んでいるようだ。でも怒りだけじゃない。目の前の状況にきっと怯えている。
「ごめんね慶太……美麗は慶太とやり直したい」
「だめです!!」
思わず叫んだ。
「そんなの許されない……」
「………」
「………」
今更謝っても過去はもう元には戻らない……。浅野さんも美麗さんも何も言葉を発しなかった。
静寂を破ったのは浅野さんだった。
「二人は知り合いなの?」
先程と同じ質問をした。一番恐れていた質問を彼はついに私に問う。
「美紗ちゃん話してないの?」
美麗さんも私を見た。
「………」
「どういうこと?」
浅野さんの目からは怒りと不安と恐れを感じる。
「美紗ちゃんは美麗の友達だよ。結婚式にも出席してくれてた」
「え?」
ついに知られてしまった。最悪の形で。
「うそ……でしょ?」
「………」
「足立さんはずっと前から僕のことを知ってたの?」
「………」
「美麗とのことも全部?」
「………」
彼の問いに何一つ答えられない。だって認めてしまったら全部壊れてしまうから。
「私は……」
「美麗の大学の後輩……そうか、君はミサちゃんか……」
「………」
「さぞ面白かっただろうね。婚約者に裏切られた僕をずっと見てきたのは。今哀れな僕のそばにいるのはどんな気分だ?」