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「慶太何だって?」
お風呂から出た美麗さんが髪をタオルで拭きながら私の前に座った。
「急用じゃないから明日かけ直すそうです」
「そう。式のことかな」
「優しそうな人ですよね……」
慶太に対して思ったことが声に出た。
「うーん、そうだね。怒ると怖いけど」
美麗さんはバサバサと髪を指で乱暴にすいて、私のドライヤーを自分のもののように持って勝手にコンセントに挿した。
「素敵な人なんだろうな……」
この呟きはドライヤーのスイッチを入れた美麗さんには聞こえない。風が吹き出す鈍くて大きな音にかき消される。私が何を言っても聞こえておらず、長い髪を鬱陶しそうに乾かしている。濡れた髪を手に滑らす美麗さんは同性から見ても美しい。汗ばんだ首筋が色気を漂わせている。両膝を床にぺたりとつけて座る姿が余計に女性らしさを引き立たせる。私が貸したシンプルなパジャマだって美麗さんが着ると可愛く見えた。
この無防備な姿で何人の男をたぶらかしてきたのだろう。慶太と結婚したら悪い癖は治まるのだろうか。それとも、また新しい浮気相手を見つけて同じことを繰り返してしまうのかもしれない。
美麗さんの人生に挫折や失敗なんてないに違いない。誰かを傷つけても気づかないし気にもしない。一度でいいから、美麗さんが恵まれた人生から転落するところを見てみたい。
そんなことを微かに思いながら美麗さんが髪を乾かし終わるまで眺めていた。
「そうそう美麗さん、匠にはちゃんと別れると言ってくださいね」
これが重要なのだ。匠との仲を綺麗にしないと進めない。
「……うん」
美麗さんの歯切れ悪い返事はやはり信用できないなと思えた。匠がはっきりしなければこの人は結局二股のまま生きていくのだ。一度匠を説得するしかない。
私がここまでやるのは美麗さんのためじゃない。慶太を傷つけないためなのだから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
美麗さんと会う約束をしていたのに彼女は体調が悪いからと待ち合わせの時間に遅れていた。遅刻するのはいつものことだけど、最近の美麗さんは食欲もなく、吐き気を訴えることが多かった。ストレスが溜まっているからと不満を言う美麗さんに病院に行けと言ったけれど、そのせいで待ち合わせに遅れているのだとしたらいい迷惑だ。文句を言って軽蔑しつつもいつまでも美麗さんとつるんでいる私はもう彼女のペースに巻き込まれている。
待ち合わせ場所のロータリー横の広場には既にKILIN-ERRORのメンバーが楽器の準備を始めていた。もし匠から美麗さんを説得してもらうとしたらチャンスは今しかない。私はペットボトルの水を飲んでいる匠に近づいた。
「こんばんは匠さん」
「ああ美紗ちゃん、先に来たの?」
「ちょっと匠さんにお話しがあって」
「何?」
匠はペットボトルを植え込みの端に置くと折りたたみ式のイスに座るように私に勧めた。
「単刀直入に言うと、美麗さんと別れて欲しいんです」
「………」
予想外の話だったのだろう、匠は固まった。
「美麗さんがもうすぐ結婚するのはご存知ですよね? 美麗さんのためにも相手の方のためにも、匠さんから引いて欲しいんです」
彼女は自分からは匠と離れられない。匠が縛る限り。
「俺は美麗が結婚するまでの関係のつもりだったよ」
「でも美麗さんは結婚してからも匠さんとの関係を続けるつもりでいます」
「え……それは知らなかったな」
匠は本当に驚いている。自分の発言がどれだけ美麗さんを惑わせているかを自覚していない。
「そんなのは間違ってます。匠さんもそう思いますよね?」
「………」
「だから匠さんから美麗さんと別れてあげて欲しいんです」
「………」
匠はしばらく考えて「分かった」と言った。
「美麗が幸せになることが俺の幸せでもあるから」
「ありがとうございます」
私は心から感謝の気持ちを匠に伝えた。これで美麗さんは慶太だけを見てくれる。慶太は何も知らないまま傷つくことなく美麗さんと幸せになれるのだ。
「美紗ちゃん!!」
もう夜だというのに突然押し掛けてきた美麗さんがアパートのドアの外で泣き叫んでいる。ドアを壊す勢いで激しく叩いてチャイムを連打する。
「美麗さん近所迷惑ですから……」
私は外で泣く美麗さんを部屋の中に入れて落ち着かせた。
「どうしたんですか?」
美麗さんは涙でメイクが落ちて顔がぐしゃぐしゃだ。母が仕事に行っていてよかった。今の美麗さんの状態を詮索されないから。
「匠に別れようって言われて……」
ああ、そのことか。ついに匠は美麗さんのために身を引くことを告げたのだ。
「でも美麗別れたくなくて……」
「んん?」
「そうしたら匠が俺を選んで結婚をやめるか、慶太と結婚するか、どっちか選んでって……」
私は溜め息が出る。どうしてそんなことになるのだ。美麗さんに選ばせるやり方ではだめなのだ。匠が美麗さんを振ってくれると期待していたのに。
「で、美麗さんはもちろん慶太を選んだんですよね?」
「選べないよぅ……」
「なんで?」
目の前のワガママご令嬢にもう不快感を覚える。選べないんじゃない。慶太を選ばなければいけないのだ。慶太を傷つけたらダメなのに。
「選べないって言ったら匠は何て?」
「美麗の好きにしてって……」
それは間違ってる。突き放してくれなければこの人は慶太の元に帰れない。美麗さんの判断に任せてしまうのは匠も美麗さんをどこか諦められないからだろうか。
「どっちも愛してるの……」
この言葉を聞いた瞬間、今まで意識しないようにしてきた思いが頭を駆け巡った。もう友人ではいられない、と。価値観が違いすぎる。そばに居ようと繋ぎ止めていた気持ちが切れてしまった。
「美紗ちゃん……美麗、妊娠してるの」
衝撃の言葉に目を見開いた。
「妊娠……?」
細い彼女のお腹には命が宿っているのだと言われて思わずお腹に視線がいった。最近の体調不良はつわりだと思えば納得がいく。
「どっちの……父親はどっちですか?」
聞かずにはいられない。お腹の子の父親は慶太なのか匠なのか。
「わからないよぉ……」
垂れた鼻水と涙でぐちゃぐちゃな顔で美麗さんは嗚咽を堪える。
「どうして避妊しなかったんですか?」
思わず責めるような声音になってしまった。
「慶太はゴムつけてくれたけど、匠とは……」
「つけなかったんですか?」
「だってその方が気持ちいいし……」
美麗さんを責めるつもりで大袈裟に溜め息をついた。婚約者がいるのに、婚約者ではない男と避妊もしないでセックスして妊娠するなんてゲスにもほどがある。返す言葉が浮かばない。
「美紗ちゃん、美麗はどうしたらいい?」
「私に聞かれてもわかりませんよ……」
そんなことを私に判断できるわけがない。美麗さんの話を聞く限りではお腹の子は匠の子である確率が高い。このまま慶太と結婚したら美麗さんに振り回されてきた人たちはどうなってしまうの?
「きっと慶太は美麗さんの妊娠を喜んでくれると思います」
「そうだよね」
「でもそれは自分の子だと思っているからです。もし匠との子だったら慶太と育てるんですか? そんなの最低ですよ。結婚してはだめです。子供が大きくなるにつれて慶太と似なくなります。そのときに現実を知るなんて残酷すぎます」
私の冷たい言い方に美麗さんの肩が震えた。何も知らない慶太があまりにも可哀想だ。