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「うん。会社に戻るよ」

「今からですか? もうロックかかっちゃいますよ」

「警備室に言って入れてもらうよ。新店オープンが来週に迫ってるからね」

だからって今から会社に戻ることはないのに。そんな気を遣ってまで優磨くんと私をくっつけたいのか。

「優磨は足立さんをちゃんと送っていくんだよ」

「はい!」

何も知らない優磨くんはニコニコと笑顔を見せる。左右に揺れる尻尾が今にも見えてきそうだ。

「じゃあ」

浅野さんは反対方向に体を向けると会社までの道を戻っていく。私は振り返ることのない浅野さんの背中を見て涙を堪えた。

泣くな、隣には優磨くんがいるのに。浅野さんをこんな態度にしたのは私じゃないか。

言い聞かせても過去の自分を恨んでしまう。彼を好きでい続けることが辛くなってきた。

「足立さん、行きましょうか」

「うん……」

この状況に私は吹っ切れた。
『それでも好きでい続けられるか』って? 上等だ。この挑戦、最後まで受けて立とうじゃないか。辛くて苦しくて、最後はあなたのように壊れかけてしまうとしても、それでも好きでい続ける。



電車に乗って6駅。最寄り駅から歩いて10分ほどで母と暮らすマンションが見えてくる。マンションの前まで送ってくれると言う優磨くんに甘えて駅から二人で歩いた。

「優磨くんと浅野さんって本当に仲がいいんだね」

「そうですね。兄と弟って感じですかね。俺は姉がいるんですよ。慶太さんも妹さんがいますし、年齢差もあってお互いに兄弟みたいに接しちゃうんでしょうね」

姉がいるという優磨くんにビクつく。いつどんなタイミングで私と美麗さんの関係がばれてしまうか分からないのだ。

「浅野さんとはどうやって知り合ったの?」

優磨くんが浅野さんの実家によく行っていたと聞いたけど、年齢も立場も違ったはず。そもそも美麗さんと浅野さんがどうやって知り合ったのかも詳しく知らない。

「慶太さんの実家ってパン屋さんなんですよ。俺がそのパン屋の常連だったんです」

浅野さんの実家の話は初めて聞いた。美麗さんは浅野さんのことを詳しくは言わなかったし、私も当時は知ろうとしなかった。

「俺の家じゃ惣菜パンなんて食べれなかったんです。一流ホテルのシェフが焼いたクロワッサンとか取り寄せたフランスパンみたいなものしか食べたことがなくて、商店街のパン屋って新鮮だったんです」

城藤の人間が惣菜パンを口にすることなんてないのかもしれない。思い返せば美麗さんとファーストフード店に入ったことなんて記憶にない。お洒落なカフェくらいなものだ。

「あ……嫌みでしたか?」

「ううん、そんなことないよ」

私の言葉に優磨くんはほっとし顔をした。

「学校帰りに親に内緒でこっそり買いに行っているうちに、当時大学生でお店を手伝ってた慶太さんに勉強教えてもらうようになって」

大学生の浅野さんはきっと今よりも温厚だったに違いない。美麗さんと付き合っていた頃のように、優磨くんにも優しかっただろう。

「ほんと、お兄ちゃんって感じです」

優磨くんは浅野さんを心から慕っている。誰よりも浅野さんの気持ちを理解して、長い年月を一緒に過ごしてきた。でも浅野さんが今まともな恋愛をできていないこと、その理由をどこまで知っているのだろう。

「優磨くんはお姉さんとは仲いいの?」

「………姉とはもう何年も会ってません」

「そっか…」

「家を出て行ったので」

私も美麗さんとはあの式以来連絡を取っていない。きっと彼女は今も実家に顔向けできないのだろう。「姉は色々あって……」と言った優磨くんは怒っているようだ。

「親は何度か連絡を取っていたみたいですが。生活に困ってお金がほしいって言ってくることもあったようで。でも俺は姉とは連絡とってないので今どこで何をしてるのかは分かりません」

今でこそあのバンドは有名になって稼いでいるだろうけど、美麗さんを養えるほどの稼ぎはあの頃はなかったはず。美麗さんがあのあとどうなったのかは優磨くんからは知ることができない。

「慶太さんは俺の家庭教師をやってくれてた時期があって付き合いは長いです。親が雇った教師よりも分かりやすくて成績も伸びたんですよね」

優磨くんは自分のことのように浅野さんを誇らしく思っているようだ。確か浅野さんはハイレベルの大学出身だったはず。城藤も納得の高学歴なのだろう。

「実は慶太さんと俺の姉って付き合ってたんです」

「へえ……そうなんだ……」

初めて聞いたように装った声を出す。

「俺の家に教師として来てくれたときに姉と出会いました」

そうして美麗さんは珍しく自分から浅野さんに惚れたんだ……。

「二人は結婚するはずだったんですよ」

「そう……なんだ」

「でもだめになっちゃいました。姉が浮気してたんです……」

これも初めて聞いたふりをした。このまま黙って聞いていれば当時のことがより深く聞けるはずだと思って。並んで歩く優磨くんの横顔は暗くてどんな表情かは分からない。

「それが分かったのが結婚式の当日で……最悪の式になっちゃいました……」

優磨くんの声は少しだけ震えている。それはきっと寒いからだけではない。

「姉はそれ以来帰ってきません。浮気相手と上手くやってるんじゃないかな。あっちは今仕事が順調みたいなので」

KILIN-ERRORは今では大人気のバンドになった。昨年末の音楽番組に見ない日はなかった。
彼らを目にする度、曲を耳にする度に浅野さんだけじゃなく優磨くんも辛いことを思い出す。全然関係なかった優磨くんまで今も苦しめることになるなんて、当時の私も美麗さんも深く考えることができなかった。

「慶太さんに申し訳なくて。俺と会う度に姉を思い出すんじゃないかと思って離れようとしたんですけど、優磨が悪いわけじゃないからって言って今でも俺と会ってくれるんです」

浅野さんらしい。優磨くんを大事に思っているんだろう。

「姉が許せません。慶太さんを裏切ったこと」

許せない。
優磨くんの口からそう言われて私は罪の重さに息苦しくなる。

「そうだね……酷いね」

本当に、酷いことをした。そして優磨くんは浅野さんが傷ついた原因は自分にもあると思っている。

暫くお互い無言で歩いていた。優磨くんは感傷に浸って、私は過去の罪を重く受け止めていた。
今更私にできることはなんだろう。傷つけて苦しめたこと、どうすれば償えるのだろう。この二人の近くに居続けて本当にいいのだろうか。

もうすぐマンションが見えてくるというところで優磨くんが口を開いた。

「少しだけですが姉を尊敬してるんです」

意外な言葉に私は優磨くんを見た。

「それはどうして?」

「城藤家に生まれるとある程度人生が決まってしまうんです。学校や職場、結婚相手まで決められてしまいます」

美麗さんも初めはお見合いの話があった。城藤の利益のため、会社同士の結び付きのための。

「でも姉は親の決めた相手ではなく慶太さんと結婚すると公言しました。親に逆らって今までの生活が変わってしまうとしても慶太さんを選んだんです」

美麗さん本人からは浅野さんと結婚できないのなら死ぬとまで騒いだと聞いた。本気で死ぬつもりはなかったとしても意志を通せるところまでは抵抗したのだ。

「慶太さんを傷つけたことは一生許しません。でも決められた人生に逆らったことはすごいと思います」

他人から見て恵まれていると思えても、その立場になってみなければ本当に恵まれているのかなんて分からない。

『美紗ちゃんは不自由だって感じたことある?』

いつだか美麗さんに聞かれたことがあった。美麗さんは好き勝手にやっているように見えて、本当は窮屈な世界で生きていたのかもしれない。

「本当は俺がカフェでバイトすることもよくは思ってないんですけど、社会勉強だって言って親を説得しました」

「あそこを選んだのは浅野さんが心配で?」

「はい」

優磨くんも浅野さんを心配しているのだろう。二人には友達以上の絆がある。

「俺春から社会人なんですけど、親に就職先を決められちゃったんです」

「そうなの?」

「はい。初めは城藤系列の会社に入るよう言われたんですけど、自分の職場は自分で決めたくてみんなと同じように就活したんです」

街灯の横を通ると光に照らされた優磨くんの顔は悲しんでいるような笑っているような複雑な顔だ。

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