バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ


「もしもし……ああ、うん……」

私は少しでも二人きりでいたくて早く通話が終わればいいのにと思いながら浅野さんが見ていたラックを眺めた。

「何それ……」

急に暗くなった声に驚いて浅野さんを見た。

「誘いに乗らなかったのは君だよ。遊ばれたのは僕の方だ」

不穏な会話につい聞き耳を立ててしまう。久しく聞かなかった誰かを冷たく叱責する時の声だ。今の浅野さんの声はその状態にとても似ている。

「それは僕のセリフだよね。一回寝たからって勘違いしないでよ」

聞き捨てならない言葉に耳を疑う。無表情だけど浅野さんは今怒っている。

「終わりだ」

そう言い捨てて浅野さんは耳からスマートフォンを離した。そうして何もなかったようにまたCDを手に取った。

「あの……大丈夫ですか?」

思わず聞いてしまった。電話の内容が気になって仕方がない。

「ああ、気にしないで」

「でも……浅野さん辛そうです」

顔には出さないけれど、浅野さんは今何かがあって傷ついている。そんな気がしてならない。私の言葉に彼は目を見開いた。

「すみません……何となくそう思ったので」

「………」

話の内容は横にいた私にだって分かるくらい気まずいものだ。

「今の、彼女さんかなーなんて……」

電話の相手は女の人。そう思ったから遠回しに聞いてみた。浅野さんの顔が少しだけ意地悪な顔になる。

「彼女だとしたらどうする?」

「嫉妬しますね」

本音で即答した。

「浅野さんに誘ってもらえて、浅野さんの心を乱すなんて羨ましいです」

冷めた態度のこの人を振り回して心を揺さぶるなんて、そんな特別で楽しそうなことを私だってしてみたい。

「でも、今の電話の人は浅野さんを傷つけた気がしました。そんなことをするなんて酷いなって思います」

大事な人には傷ついてほしくない。私だって同じように傷ついてしまうから。

「……浅野さん?」

私を見つめたまま浅野さんは固まってしまった。

「あの……本当に大丈夫ですか?」

もしかして電話の相手に私が思う以上に傷つけられたのかな……?
心配になり近くに寄ったその時、浅野さんの手が私の頬に伸びて優しく触れた。

「え?」

浅野さんにしては有り得ない行動に体が硬直する。そのまま私の目をじっと見つめる浅野さんの目を私も見返した。メガネの奥の長いまつ毛と綺麗な瞳が私を捕らえて離さない。

「浅野さん……」

この流れはついにきた。ここがCDショップだろうと人の気配があろうと、もうどうでもいい。私は目を閉じた。早く彼の唇が触れてくれないかと願って。

「見つけました!」

後ろから突然声が聞こえた瞬間、浅野さんの手は頬から勢いよく離れた。
振り返ると息を切らした優磨くんが立っていた。

「はぁ……走ったー……」

「走ってこなくてもいいだろ。すぐ近くなんだから」

浅野さんは何もなかったかのように自然と私から離れて優磨くんに近寄った。

「だって待たせてるのが悪くて」

浅野さんは優磨くんと待ち合わせしていたようだ。私にそれを言うこともなく。

「足立さんお待たせしてすいません」

優磨くんが私に申し訳なさそうな顔を向けた。待っていたわけじゃない。来ることも知らなかった。

「ううん、気にしないで……バイトだったの?」

「はい。今終わって急いで来ました」

「お疲れ様……」

無邪気に笑う優磨くんにつられて私も笑ってしまう。心の中で浅野さんに失望しながら。

「ほら、もう発売してるよ」

浅野さんは持っていたCDを優磨くんに差し出した。

「わぁ、あった! ありがとうございます! じゃあ買ってきます」

優磨くんはCDを持ってレジまで行ってしまった。それでも残された私たちの距離が再び近づくことはない。

「優磨くんと待ち合わせしてたんですね」

私の声は自然と低くなる。浅野さんへの恨みがこもっているから。

「待ち合わせしてたんじゃないよ。僕が呼んだの」

「どうしてですか?」

「………」

「私と二人きりになるのは嫌ですか?」

「………」

浅野さんは無表情で決して私を見ようとしない。ラックに並んだCDをひたすら見ている。

「幸せにするって言った私に浅野さんは『やれるものならやってみな』って言いましたよね。なのに私の気持ちから逃げるってことですか?」

私の攻撃に反撃してくれると思ったのに。ここまでかわされ続けてはいい加減くじけそうだ。

「さっきの電話の相手、彼女じゃないよ」

いきなり話題を変えられて戸惑う。

「誘われたから一回だけ寝た女」

浅野さんの口から初めて女性関係の話題が出た。そしてそれは噂通りの内容だった。

「いいセフレになるかもって思って今度は僕から誘ったんだけど、向こうのノリが悪くてこの間ドタキャンされたんだ」

淡々と話す様子とは裏腹に、内容は私には重くて残酷だ。

「今日またその女から誘われて約束してたんだけど、僕がすっかり忘れてて。向こうが怒ってかけてきた電話だよ」

知らない人が聞いたら浅野さんの声には感情がこもってないように聞こえるかもしれない。でも私には悲しんでいるように聞こえる。

「たった一回寝ただけで彼女だと思い込むような面倒な女だったな。こっちがその気になったのに、最初に拒絶したのはあっちだからね」

浅野さんは心で叫んでいる。泣いて苦しんで叫んでいる。自分で自分を傷つけている。

「だめだねもう。お互い誠意がないから。その女とは今関係を切ったよ」

「………」

「もう僕はまともな恋愛はできないよ」

予想以上に彼の傷は深い。その深い傷が癒えないうちに更に自分で傷を広げていく。

「浅野さんからそんなこと聞きたくなかった……」

そんな浅野さんを見るのは辛い。

「優磨には内緒だよ。特に女関係は。あいつ真面目で僕のことになると心配性だからね」

「軽い女は嫌いじゃなかったんですか?」

「嫌いだよ。嫌いだから利用する。そういう女だって僕のことを都合よく性欲処理に使ってるしね」

目の前に立つこの人は私の知っている浅野さんじゃないようだ。傷の奥にまで闇が広がっている。こんなにも彼は過去に傷ついたままだ。

「驚いた? それとも嫉妬した?」

「………」

私を見る視線に耐えられなくて下を向いた。浅野さんが一歩近づき下から私の顔を覗き込んで容赦なく攻める。

「足立さんは僕とどうしたい? セフレが増えたら、それはそれで幸せだけど」

かっとなった私は手を上げて浅野さんの顔に振り下ろした。パシッと乾いた音が響く。

「バカにしないでください……」

「………」

浅野さんは左手を頬に当て、右手でメガネのずれを直した。指の隙間から見える頬は赤くなっていて、私も今は怒りで顔が赤くなっているだろう。

「セフレになりたいんじゃない……」

小さく呟いて泣かないように体に力を入れた。
そうじゃないんだ。身体だけ繋がりたいんじゃない。
周りに人がいれば何事かと不審に思われたかもしれない。でも今は偶然にもこの周辺には私と浅野さんしかいなかった。

「お待たせしましたー」

優磨くんの元気な声で我に返るとラックの向こうから優磨くんが不思議そうな顔をして立っていた。

「どうかしました?」

「いや、なんでもないよ」

浅野さんは顔に当てた手を下ろすと「行こうか」と優磨くんへ声をかけた。

歩き出した二人の後ろから私も何もなかったような顔をしてついていく。優磨くんが出口に向かってラックの角を曲がった時、浅野さんは背後にいる私に向かって少しだけ顔を動かした。

「それでも僕を好きでい続けられる?」

そう問いかけた。優磨くんには聞こえない小さな声で。私の答えは聞かずに先にラックの角を曲がってしまった。曲がる直前にまたしても微笑んだ気がした。それは今までの笑いと種類の違う、意地悪で冷たい顔だった。
身体の関係から攻めていくのもありだと思っていた。でもそれはこの人の思う壺なのだ。そんな小細工はもう通じない。これが全部作戦なら浅野さんはかなりの強敵。流石の私も降参する日は近いかもしれない。
CDショップを出る直前の店内のBGMは今一番聞きたくないKILIN-ERRORの新曲だった。



CDショップを出て三人で駅まで歩いた。

「優磨くんはそのアーティストが好きなの?」

「アーティストっていうかこの曲が好きです。でも好きになったのは最近なんですよ。映画の主題歌だって知ってから」

屈託のない笑顔を向けてくれる。優磨くんはいつだって人を元気にさせる。特に悩んでいる今はこの子の存在はありがたい。

「ダウンロードよりも直接CDを持っていたくて」

「いい曲だよね。映画に合ってるし」

「映画も気になってます。恋愛なのにミステリー要素もあるっぽくて面白そうです」

「なのに感動もするって聞くし、周りみんな観てるんだよね」

「じゃあ今度観に行きませんか?」

「え?」

「観に行きましょう。その映画」

優磨くんはさり気なく誘ってくれているように見えて実は緊張しているようだ。以前見たように目の周りが赤くなっている。
私は返事に困った。優磨くんと二人で会わないと決めたのに。

「それはいいね。二人で観に行ってくればいい」

横で黙って聞いていた浅野さんが話に入ってきて『二人で』と少し強めに言って煽る。

「後は二人で相談しなよ。僕はここで」

「え? 帰らないんですか?」

私は慌てた。浅野さんは優磨くんと二人きりにしようとしているから。

しおり