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ほぼ一日晴れて傘の必要はないという今朝の天気予報は見事に外れ、窓から見える空は灰色に変わり今にも雨が降りだしてきそうだ。まるでこのフロアにいる十数人の社員の気持ちを表しているかのように。

「先方にはいつまでに完成するか期限を明確に伝えてもらうように言ったはずだけど?」

レストラン事業部のフロアで浅野係長はデスクに座り、目の前に立った新入社員の女の子、今江さんに冷たく言い放った。

「期限をきちんと確認するのは重要だって何回も言ったよ」

今にも泣きそうな今江さんに対して浅野さんは表情を変えることはない。銀縁メガネの奥の目は笑っていない。
フロアにいる社員はまたかと二人の様子をパソコンの間から盗み見た。新入社員の今江さんが何らかのミスをするのは仕方がない。
仕方がないけれど、浅野さんが後輩や部下に指導する姿は何度見ても良い気はしない。冷たい言葉を聞くと身がすくみ、冷たい態度を見せると回りまで冷や冷やするのだ。
数メートル離れた席に座る私はお馴染みの光景でも浅野さんから目を逸らさなかった。
彼は仕事に厳しいことで有名だけど、何度冷たい対応をされても私だけは浅野さんのことを嫌いになれない。

一通りのお説教が終わると今江さんはフロアの外に出ていった。きっとトイレで泣いてしまうのかもしれない。
あんな言い方しなくてもいいのに、と他の社員の声が聞こえてきそうなほどフロアの雰囲気はよくなかった。

きっと数年後に浅野さんのお説教に感謝する日が来るからね今江さん!

私は心の中で今江さんを励まして浅野さんの味方をした。どんなに冷たく酷い言い方をしても、浅野さんは本心じゃなくわざと傷つけるようなことをしている気がするから。根は優しいけど仕事に対しては厳しい人なんだ。私が浅野さんの過去を知っているから、そう思いたいだけなのかもしれないけれど。

浅野さんが立ち上がった動きに合わせて私の視線も動く。数枚の紙を持ちながら私のデスクに近づいてくる浅野さんに緊張する。

「足立さん」

「は、はい」

思わず口籠った。

「駅前店のメニュー表なんだけど」

浅野さんは私のデスクの上に文字と数字が羅列された紙を広げた。

「メニューと価格が決まったからこれで作ってくれる? ドリンクの写真は午後に潮見さんが持ってくるから」

「わかりました……」

「ここはメイン商品だから目立つようにしてほしいかな」

浅野さんの長い指が紙の上をなぞり、反対の手でさりげなくメガネのずれを直す。自然と私は浅野さんの顔を見た。銀縁のメガネが余計に浅野さんを冷たく印象付けるけれど、近くで見るとくっきり瞼が二重になっていてまつ毛も長い。鼻筋はすっと伸びて唇はふっくらしている。まるで女性のように。

メガネをはずした顔をもっと見てみたい……。

「足立さん?」

「あ、はい、すみません」

浅野さんが私の顔を見るから慌てて目を逸らした。

「………」

「じゃあよろしくね」

「はい……」

私の様子に不審そうな顔をしたけれど、彼は何も言わずに自分のデスクに戻っていった。
浅野さんを気にするあまり浅野さんを見てしまう癖がなかなか直らない。気づかれてはいけないのに、このままじゃいつかバレてしまう。私が浅野さんの結婚を壊した女だって。
窓の向こうから大粒の雨音が聞こえてきた。窓ガラスに雨が当たって下に流れ落ち地面に消えていくけれど、私の苦い過去の記憶と罪はいつまでたっても消えてはくれなかった。

大学の時に初めて出席した結婚式は最悪のものだった。いや、あれは結婚式なんて言えたものじゃない。大勢の参列者の前で新郎新婦の親族を辱めるものだった。
あの日以来新郎、浅野慶太の顔が目に焼きついて離れない。魂が抜けた屍のような顔。泣いてこそいないけれど、不安と悲しみに潰されすぎて涙も出ないほどぺっちゃんこになった心。
数メートル離れた祭壇にいる浅野さんの姿が今でも私を苦しめる。苦しめたのは私の方なのに、浅野さんの人生を壊した代償は想像よりもずっと辛かった。
あれから何回か親戚や友人の結婚式に招待してもらったけれど、新婦、或いは新郎が式の途中で消えてしまうのではないかと毎回ビクビクしていなければならなくなった。それほどに、幸せな新郎新婦の姿は繰り返し私に罪を突きつけた。

大学を卒業して株式会社早峰フーズに就職した私は浅野慶太と再会するなんて思いもしなかった。配属されたレストラン事業部に当時主任として浅野さんは勤務していた。ほぼ毎日顔を合わせるほどの距離に動揺した。
大混乱の結婚式当時よりは痩せてメガネをかけ始めたようだけど、時折見せる悲しげな表情はあの時と変わっていなかった。結婚式から4年もたっているのに忘れることができないほど浅野さんに負い目がある。
まさかこんな形で再会するとは思わなかった。まるでいつまでも罪を忘れるなと言うかのように……。

それなのに浅野さんは私のことなど気づかないようで、ただの新入社員として接していた。他の社員と同じように指導して、他の社員と同じように怒られた。
浅野さんは仕事を完璧にこなす人だった。まだ入社歴が浅いのに重要な店舗を任されることもある『できる先輩』。
二十代後半なのに入社4年なのは中途採用だからだと聞いた。つまり浅野さんは結婚が破談になってから転職したようだ。
結婚式には職場の同僚も招かれていたはず。めちゃくちゃな式になっては当時の職場にも居づらくなっただろう。その事実が更に私を苦しめた。





「戻りましたー」

フロアのドアが開いて同期の潮見が外出先から戻ってきた。潮見はホワイトボードに書かれた自分の名前の下の『外出』の文字を消し、私に近づいた。

「お帰りなさい」

「美紗ちゃん、お昼行こ」

潮見の手にはビニール袋に入ったお弁当が見える。

「それってもしかして……」

「そう! 裏通りのカレー屋さんのお弁当です!」

キラキラと目を輝かせる潮見に笑顔を見せると私はすぐにデスクの上を片付け立ち上がった。
食堂に入ってイスに座ると潮見は笑顔でテーブルにプラスチックのお弁当箱を広げた。

「じゃーん!」

私の目の前で開けられたお弁当の中身は美味しそうなポークカレーだ。

「やっと食べられたね」

「ありがとう」

子供のように笑う潮見に感謝して私も笑い返した。
同期入社だけど外回りが多い店舗管理課の潮見と、内勤でデザインや発注を担当する企画管理課の私とではランチタイムがずれてしまう。たまに時間が合うときは潮見が会社の周辺でお弁当を買ってきてくれるのだ。

会社の裏通りに新しくオープンしたカレー屋さんがずっと気になっていた。情報番組で紹介されたほど人気だけれど、会社からは少し距離があって往復して食べるだけでお昼休みが終わってしまい、ゆっくりできないから今まで自分で買いに行くのは諦めていた。
潮見は会社の新店のメニューや試作品も時々持ってきてくれる。私はそれを密かに楽しみにしていた。

「そういえばさっきトイレに入ったら今江ちゃんが泣いててさ」

潮見の言葉に顔を上げた。やはり私の想像した通りになった。

「やっぱりか……」

「また浅野さんに怒られたの?」

「うん」

今江さんが泣く。それは浅野さんに怒られたからという経緯は簡単に考えられる。レストラン事業部の人間なら誰でも。

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