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1週間後に有給を取った。忙しい時期に休むことを部長はいい顔しなかったけれど、武藤さんは「ゆっくり休んでください」と嫌な顔1つしなかった。

ついに正広の部屋の鍵を返そうと決めてアパートまで来た。もう武藤さんのことしか考えられなくなった時点でやっと正広が過去の人になったということだ。
正広が絶対に部屋にいない時間を見計らって合鍵を使ってドアを開けた。中は私が出入りしていた頃とそんなに変わらず、残してきた私物はきちんと残っていた。洗面所に残ったままだった歯ブラシをごみ箱に捨てた。わずかな着替えと、ドライヤーや洗面用具を持ってきたトートバッグにつめる。
靴を履き、外に出て部屋の鍵を閉めるとドアの郵便受けにそのまま鍵を入れた。カチャッと金属が落下した音がして、それが正広との関係の完全な終わりを告げた。
LINEで正広に鍵を返したことを報告した。もう別れたくないだのと未練がましいことは言わないシンプルな文章を打つ。
仕事中なのを狙ってきたのだからすぐには既読にならない。別れ話の電話以降ろくに話もしないまま、今日勝手に鍵を返しにきた。
正広のことを怒っていないと言ったら嘘になる。ひどい裏切りだ。一緒にいた5年の歳月は私と正広では重みが違ったことはショックだ。
でも正広に私の嫌な印象を残したまま別れることは嫌だからもうお互いを自由にしてあげたかった。

正広のマンションを出たその足で美容院に向かった。肩にかかる髪が鬱陶しい初夏の昼だった。







「おはようございます」

出社してきた武藤さんに今まで向けた中で最高の笑顔で挨拶をした。

「……おはようございます」

武藤さんは機嫌の良い私に少し驚いたような顔をしている。有給明けで我ながらすっきりした顔をしていると思う。髪も顎のラインまでばっさり切って軽くなった。

「髪型、似合っていますよ」

イスに座りながら武藤さんは私に微笑んだ。

「あ、ありがとうございます……」

武藤さんはいつだって優しくしてくれる。今の私には小さな気遣いだって照れるほど嬉しくて、髪を手で撫でつけた。
いつの間にか私は武藤さんに壁を作らなくなった。そばにいることに抵抗を感じない。話すことが苦ではない。情けない部分を見られて恥が消えたのかもしれないし、傷を癒すために気を遣ってくれる武藤さんに甘えているのかもしれない。彼のそばにいると落ち着くことさえあった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



正広と決別してから初めての日曜日は少し風の強い晴れた日だった。
今までなら正広は何をしているのだろう、仕事は順調だろうか、元気だろうか、そんなことばかり考えていた。だけどもう心が軽い開放的な朝だ。何もない休日を寂しいと感じたのも初めてだけれど。
洗濯をして掃除をして、早めのお昼ごはんを作って食べた。そうしてふと考えるのは武藤さんのことだ。
彼は今何をしているのだろう。1人だろうか、誰かといるのだろうか。休日も仕事に役立つ知識や見聞を広めるために出掛けたりしているのだろうか。実家の家族とはどんな話をするのだろうか。
武藤さんのことが気になっている。正広と関係を絶ったとしても、武藤さんへのそれは好意なのか寂しさを埋めるだけのものなのかはまだ答えが出ない。

そういえばプライベートの連絡先を知らないな。

会社から支給されている武藤さんの携帯電話の番号は知っている。けれど知っているのはそれだけだ。仕事以外で武藤さんに連絡を取ろうと思ったら社用携帯にかけるしかない。
私はスマホのアドレスを眺めた。『武藤さん』と登録された番号は彼の社用携帯のもの。電話をかけてみても休日の今日彼が出る可能性は低い。
それでも声が聞きたいとそう思ってしまったのだ。

『通話』をタップして待つこと数秒で「もしもし」と聞き慣れた声が耳に心地よく響いた。

「あの、戸田です……」

「お疲れさまです」

武藤さんは急に電話を掛けてきた私に驚いた様子はない。

「どうかしましたか?」

「えっと……あの……」

掛けたはいいものの用があったわけじゃない。武藤さんのことが気になりすぎて思わず電話をかけてしまったのだとは中々素直に言えない。

「寂しいんです……」

思いきって絞り出した言葉に精一杯の勇気を込めた。

「一緒に……いてくれませんか?」

そばにいてほしいときに利用していいと言ったのは武藤さんだ。私は今心の隙間を埋めてくれる相手を欲している。

「僕は今買い物中なんです」

期待した返事とは違ったことに、ぎゅうっと胸が締め付けられるような感覚がした。まるで私の相手をしている暇などないと言われてしまったようで。

「そう……ですか……」

「なので駅前に来てください」

「え?」

「迎えに行きますから」

ほっとして肩で大きく息をした。電話の向こうの武藤さんは迷惑な様子もなく私を受け入れてくれる。

「僕は30分ほどで駅に着くと思います」

「はい! 行きます!」

通話を終えるとクローゼットから慌てて服を出した。こんなことなら朝から服を選んでおけばよかった。メイクも念入りにしたかったのに結局時間がなく出勤するときよりも薄めになった。会いたいと言ったのは私なのに準備する時間がないのは悔やまれる。
こうして武藤さんに会うのに気合いを入れる自分は彼が好きだからなのだろうか。それとも自分を好きでいてくれる人に少しでも良く思われたいからなのだろうか。







駅に行くとちょうど武藤さんの車がロータリーに入ってきたところだった。

「すみません急に……」

車に駆け寄った私に武藤さんは笑顔を見せる。

「構いません。戸田さんがそばにいてほしいときはすぐに駆けつけるって言ったでしょう?」

そう言って武藤さんは助手席のドアを開けてくれた。

「どこか行きたいところはありますか?」

「いいえ、特には……」

武藤さんに会えた。それだけで私は満足してしまったのだ。

「ではこのまま僕の買い物に付き合っていただけますか?」

「はい。何を買うんですか?」

「フライパンです」

「フライパン……」

意外な買い物に思わず復唱してしまう。

「今まで使っていたものを買い換えたくて。さっきは使う頻度の低かった家具や家電を売ってきて、新しい電子レンジを買ってきました」

車内の後部座席の足元を見ると確かに家電量販店で買った大きな箱が置いてある。

「今引っ越しを考えていて、少しずつ整理しているところです」

「引っ越しですか? 武藤さん会社からそんなに遠くないところに住んでましたよね? 引っ越しする必要ありますか?」

「心機一転したくて住む家から変えるんです。今度はもう少し広い部屋にするつもりですよ。それよりもやめましょう、そう呼ぶのは」

「え?」

「2人きりのときは僕のことを武藤さんとは呼ばないでください」

「では何と呼んだらいいですか?」

「直矢と呼び捨てで。僕も美優と呼びますから」

急に恥ずかしさが増してきた。武藤さんを呼び捨てにするには抵抗がある。そして美優と呼ばれることが照れくさい。

「呼び捨ては抵抗があります……」

「僕のことを恋人だと思ってくれるのでしょう?」

武藤さんの意地悪な声に縛り付けられるような感覚を覚えると同時に、私とは特別な関係なのだと言われた気がして気持ちが高揚する。今この瞬間を武藤さんも私を特別な人だと思ってくれているのだ。自分を好きだと言ってくれる人のそばにいるのは心地いい。

「じゃあ直矢……さん、と」

「仕方ないですね」

呼び捨てにできない私に武藤さんは笑っていた。
直矢さん、直矢さん、直矢さん。
私は頭の中で直矢さんと呼ぶ練習をしていた。



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