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武藤さんと外出の約束の前に少し仕事を片付けようと会社に向かった。
「おはようございます」
フロアの扉を開けると土曜出勤当番の社員の他にパソコンに向かう武藤さんの姿があった。
「あれ? おはようございます」
私を見て武藤さんも目を見開いた。
「戸田さんどうしてここに?」
「武藤さんこそ……」
この後古明橋で会う約束をしているというのに、今2人して会社にいるのだ。
「行く前に少し仕事をしようと思って」
「私もです」
では同じ事を考えていたのだと2人で笑った。
「じゃあもう少ししたら出ましょうか」
「はい」
私もデスクにカバンを置くとパソコンの電源を入れた。
揃って会社を出たのは結局初めに待ち合わせをした時間を過ぎていた。
「実は今日は車で来ているんです」
そう言うと武藤さんはビルの横の路地を進んでいった。普段の武藤さんは電車通勤だ。車を運転するイメージはなかった。
しばらく歩いて着いたコインパーキングには一台の車が停められていた。
「武藤さんの車ですか?」
「そうです。兄から貰ったものなのでだいぶ古いですが」
「お兄さんいらっしゃるんですか?」
「はい。年が離れていますけど」
意外だった。勝手に武藤さんは長男だと思っていた。
「武藤さん長男っぽいのに、意外です」
「兄とはかなり離れているので一人っ子みたいなものです。優秀な兄なので僕のコンプレックスですよ」
「そんなことないです。武藤さんも優秀です!」
本心からそう言うと武藤さんは笑う。
「ありがとうございます。自分ではまだまだだと思っていますが、戸田さんに言われると嬉しいです」
私に褒められ嬉しそうに笑う今日の武藤さんは私服だ。普段スーツ姿しか見ていないからかいつもと印象が違う。まるでモデルのようだ。
「武藤さんが自分をまだまだなんて言ったら山本さんが怒りますよ」
山本さんは日頃から武藤さんをライバル視している。仕事でリードされてしまったのに武藤さんの自己評価が低いと山本さんは更にショックを受けそうだ。
「あー、山本君には今の会話は内緒でお願いします」
「ふふっ」と今度は私が笑う。武藤さんにうまく接している。これなら今日の仕事もやりやすいだろう。
武藤さんがパーキングの清算をして車に戻ってきても私は車のそばで突っ立っていた。
「戸田さん、どうぞ」
そう言って助手席を指しながら車に乗った武藤さんは中からもう一度助手席に座るよう促す。
「じゃあ……失礼します」
私は遠慮がちに助手席に乗った。正広は車を持っていなかったから今まで男性の車に乗ったことは少ないので緊張する。
これではデートしているみたい。
そう思ってしまった自分に焦った。いくら武藤さんに好意を持たれているからといって正広と別れたばかりでデートだと思うなんて厚かましい。
まだ傷が癒えていない。正広のことを思うと息苦しい。電話で話して以来連絡が来ないし私からも連絡を取ろうとは思わない。けれどまだ正広の家の鍵を返しにいけないほどには引きずっている。
しばらく走って車は古明橋公園の駐車場に入った。オフィス街の中にある古明橋公園は季節の植物が楽しめるのはもちろん、噴水広場やサイクリングコース、ドッグランがあり、会社員が休憩に訪れたり休日は親子連れで賑わう有名な公園だ。野外ステージではアーティストがライブを行うこともある。
「えーっと……噴水広場を抜けていきましょう」
武藤さんは公園の地図を見ながら歩き出したので私はその後ろからついていく。
「当日は野外ステージでヒーローショーをやります。そのあとアイドルのライブですが、その際に使う花のアーチをここら辺に設置します」
武藤さんは地図を見ながら広場をくるくると回る。
「ああ、でもここにアーチを作ると出入り口が狭くなるな……そうするとアーチの大きさを変えるか場所を移動しないと……でも……」
地図と地面を見ながらひとり言を呟く武藤さんがおかしい。いつもはオフィスでパソコンと向き合う姿しか見ないのだ。自分の足で歩いて仕事をする武藤さんは新鮮だ。
私のお腹が小さく鳴って咄嗟にお腹に手を当てた。空腹でお腹が鳴ったのを武藤さんには聞かれなかったようでほっとする。腕時計に目をやるとそろそろ昼食にしてもいい時間だ。
「お昼にしますか?」
腕時計を見る私に武藤さんが声をかけた。
「はい、そうしますか……」
武藤さんは微笑んだ。自然と武藤さんとお昼を共にする流れになって悔しい。私が武藤さんの思い通りに動かされている。
「あそこのカフェはイベント当日に噴水広場の横にもテーブルを出すそうですよ」
武藤さんと向かったのは公園内にあるカフェだ。ホットサンドを注文して会計をしようとすると「僕が」と武藤さんが財布を出した。
「自分の分は自分で払いますから」
「今日は僕が誘ったんですから僕に出させてください」
「でも……」
武藤さんは店員に自分の分と私の分のお金を渡した。
「すみません、ありがとうございます……」
申し訳なさでいっぱいの私に武藤さんは微笑む。この人に甘えることはしたくないのに今日の武藤さんはいつも以上に私のペースを崩してくる。緊張でホットサンドを味わう余裕のない私とは反対に武藤さんは私の顔を見つめ機嫌良さそうに笑う。
「一応視察は終わったので今日の仕事は終了ですけど、この後どうしますか? どこかに行きますか?」
「いいえ、帰ります」
即答する私に武藤さんは「そうですか」とまた笑った。笑い事ではない。これ以上この人と一緒にいたら本当にデートになってしまう。
カフェを出て武藤さんの車まで歩いていると後ろからタタタッと何かが駆ける音が聞こえて振り返った。突然太ももに衝撃を受けてよろけた。混乱しながら下を見るとベージュ色の大きな犬が私の膝に前足をかけている。
「え!? 犬!?」
驚く私にその大きな犬は尻尾を左右に大きく振り、「遊んで」と言わんばかりに私から離れようとしない。よくペットとして見かける犬種のゴールデンレトリーバーだ。
「すみません!」
1人の女性が私たちのところに走ってくる。
「うちの子がすみません!」
女性は私の前で止まると犬を私から引き離した。
「本当にすみません!」
「いいえ、大丈夫です」
犬は私から離れても尻尾を振り続けている。力が強い大型犬は引っ張る飼い主も大変そうだ。女性は何度も私に謝った。
「車に載せようとしたらうっかり逃げてしまって……ごめんなさいね」
「本当に大丈夫ですよ」
クリーム色の毛を見て実家で飼っていたポメラニアンを思い出した。
「触ってもいいですか?」
私が聞くと飼い主の女性は笑顔で「いいですよ」と言ってくれた。ゆっくりと手をゴールデンレトリーバーの顎に近づけ撫でると気持ち良さそうに目を細めた。
女性にお礼を言ってゴールデンレトリーバーが車に乗るのを見届けて武藤さんを見ると、突っ立ったまま顔を強張らせている。
「武藤さん?」
そう言えば先程からずっと黙ったままだった。
「どうかしました?」
「いや……」
武藤さんは恥ずかしそうに私から顔を逸らした。
「もしかして、犬が嫌いなんですか?」
「………」
私の質問に少しだけ不機嫌そうな顔になったのを見逃さなかった。
「意外ですね……あんなに可愛いのに」
「誰にだって苦手なものくらいあるんですよ」
拗ねた子供のように言う武藤さんがおかしい。武藤さんにも苦手なものがあったなんて。
「そうだ! ここってドッグランがあるんですよね。見に行っていいですか?」
「え、いや……それは……」
武藤さんは明らかに嫌な顔をした。
「見るだけですから。柵か何かに囲われているんですから近づいてきませんよ。なんなら武藤さんは待っててください。私だけで見てきますから」
「行きますよ……」
私は不満そうに眉の下がった武藤さんの前を機嫌よく歩いた。乗り気じゃない武藤さんが静かについてくるのは気分が良い。今度は武藤さんが困っているのを見るのは最高だ、なんて思ってしまうのだ。
駐車場の奥にあるドッグランはフェンスに囲われ、休日だからか中にはたくさんの犬と飼い主がいた。
「わあ、可愛い!」
大小様々な犬にうっとりする私に武藤さんは引いている。