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麻衣さんのつわりが酷く、休む日が多くなった。
私の退職日も徐々に近づいてきたある日、花山さんが愛華さんを伴って店に入ってきて息を呑んだ。

「今日から愛華さんにもお店に出ていただきます」

「………」

あまりに突然で言葉を失った。

「えっと……あの……」

「三宅さんには退職までに愛華さんへ業務を教えて下さい」

「よろしくお願い致します」

私に頭を下げる愛華さんに返す言葉が出なかった。
今から愛華さんがお店にいるということは、他のパートさんが出勤してくるお昼まで2人でお店に立たなければいけないということだ。

「ではよろしくお願いします」

そういうと花山さんは愛華さんを残して事務所に行ってしまった。

「こちらで働くことになったんですね……」

私は恐る恐る愛華さんに話しかけた。

「はい。麻衣さんがご懐妊とお聞きしまして、先日奥様から代わりに手伝ってとお話をいただきました。花を活けるのと並行してですので、頻繁に本店をお手伝いすることはできないのですけど」

思わず溜め息をつきそうになるのを堪えた。奥様が愛華さんに手伝うように言った魂胆はわかっている。聡次郎さんに近づけるためと、龍峯の仕事を覚えさせるためだろう。

「初めてのバイトです」

愛華さんは楽しそうに笑う。反対に私は暗い顔をしていないか不安になった。

「ご指導よろしくお願い致します」

再度私に頭を下げたから、「こ、こちらこそ……」と声を絞り出した。

自然と声が低くなるのを抑えられない。愛華さんがこんなに近くにいて落ち着くわけがない。
私がもうすぐ龍峯を退職したら奥様と愛華さんはどう出るのだろう。何もかも奥様の思惑通りで気に入らない。
そもそも、愛華さんは私と聡次郎さんの関係を知っているのだろうか?

「じゃあまず開店準備から教えますね」

私は緊張しつつも愛華さんに業務を一通り教え始めた。必要以上に気を遣ってしまう。
開店しお客様が来店すると私は愛華さんにお茶をお願いした。
私が龍峯の初日に教わったように淹れ方を教えようとしたけれど、愛華さんは何も言わなくても手を動かしてお茶を茶碗に注いだ。そのあまりにも自然な動作に私は焦った。私の初日は道具と所作を覚えるのに必死だったのに、愛華さんは流れるような手つきで道具に触れる。お客様への丁寧な言葉づかいも元々身についていて、教えることは商品の包み方だけだった。それも1度やって見せると綺麗に箱を包んでしまった。

「すごいですね……」

思わず本音が口をついて出た。

「父の百貨店でやったことがありましたので」

それもそのはず。お嬢様ならお茶だって淹れることなど日常茶飯事で、茶道の心得だって身につけていて当たり前かもしれない。私が未だに勉強中の抹茶だって簡単に点てられるのだろう。
お客様がおすすめを聞いてきて愛華さんが棚からさっと商品を取った時は思わず胸に手を当てて深呼吸し、自分を落ち着かせた。商品の位置を覚えた愛華さんはお客様の好みのお茶をきちんと提供できる。初日でこれは驚いた。愛華さんの近くにいればいるほど不安になる。

「龍峯のお茶はほとんどの商品を飲み慣れていますから」

可憐な笑顔に恐怖すら覚える。私が何も教えなくても愛華さんは龍峯をよく知っている。私が必死で覚えた龍峯の業務を愛華さんはいとも簡単にこなす。

龍峯での仕事、私がいなくても大丈夫じゃん……。

退職まであと数日ここに出勤するけれど、これでは私がいてもいなくても変わらない。私がいなくなったこの店で、愛華さんは変わらず楽しく仕事をするのだろう。

開けたままの扉の奥から微かに数人の声が聞こえた。その中に聡次郎さんがいることに気付いた瞬間、「三宅さん」と愛華さんに呼ばれた。

「はい」

「あの……お化粧室に行ってきてもよろしいでしょうか?」

「ああ、はい、大丈夫です」

愛華さんは私に軽く頭を下げるとお店から出て廊下に行った。
私は嫌な予感がした。廊下には今聡次郎さんがいる。数人の社員も一緒だろうけど、2人が同じ空間にいることが不安で仕方ない。案の定愛華さんの声が聞こえてきた。会話の内容までは聞き取れないけれど、愛華さんがいるのは化粧室ではないことはわかった。

しばらくして戻ってきた愛華さんの表情は心なしか暗くなったように感じた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



私よりも聡次郎さんが先に出勤した日、部屋に鍵を置いてきてしまった聡次郎さんは私の合鍵がなければ部屋に入れなくなってしまった。こんな日に限って聡次郎さんは終日外出で、鍵を渡すことができずに私が先に聡次郎さんの部屋に戻ることになった。
ご家族も聡次郎さんの部屋の鍵を持ってた方がいいよねと思いながら夕食の準備をしているとチャイムが鳴った。
聡次郎さんが帰ってきたのだと思い私はすぐにドアを開けると、そこに立っていたのは聡次郎さんではなかった。

「三宅さん……?」

「あ……」

愛華さんが目を見開き、今まで見たことがないほど動揺していた。
私も驚いて「なんで……ここに?」と質問する。

「あの……聡次郎さんに会いに来たのですけど……」

「えっと、まだ帰ってきてません……」

私は馬鹿正直に答えてしまった。愛華さんはこの言葉で私と聡次郎さんの関係を理解したようだ。顔を真っ赤にして、今にも目から涙が零れ落ちそうだ。その姿に私は悪いことをしたような気持になってしまった。

「すみません私……勝手に押しかけてしまいまして……」

愛華さんは戸惑いながらも私の顔を真っ直ぐ見た。

「三宅さんだったのですね。聡次郎さんのお食事のお相手は」

肯定したものか否定したものか迷っていると、愛華さんの目からついに涙が零れ落ちた。

「なのに、私は失礼なことを……」

「あの……」

「申し訳ありませんでした……」

「………」

なんと言葉をかけたらいいのかわからない。もうすぐ聡次郎さんも帰ってくるし、部屋に入れた方がいいのだろうか。

「失礼します……」

愛華さんは泣き顔を隠そうともせずに振り返り、エレベーターまで行くと開いた扉から中に入った。扉が閉まるまで私に頭を下げ続けた。床に落ちた涙の粒まではっきり見えた。
エレベーターが下りたことを確認すると私は思わずドアに寄り掛かった。

愛華さんは今夜聡次郎さんに会いに来たんだ。なのに私がいた……。

あんな風に泣かれてはまるで私が悪者のようだ。
ああそうか、私は悪者なんだ。婚約者を奪い取った悪女、それが私だ。
自然と涙が頬を伝った。
愛華さんが婚約者だと知っていながら聡次郎さんと関係を続けて、それを愛華さんに言わずにいた。ずるい卑怯な女だ。
何も知らない愛華さんは聡次郎さんのために努力していたのに。
けれど私たちのことを知られてほっとした。聡次郎さんの家に私がいても怒ることも責めることもなく帰っていった愛華さんにも安心してしまった。彼女を傷つけてしまったのに。

「梨香?」

聡次郎さんの声がして顔を上げた。エレベーターから出てきた聡次郎さんは心配そうに私に駆け寄る。

「何があった?」

「えっと……」

聡次郎さんは私より動揺している。気がつけば床には数滴の涙が落ちている。

「愛華さんが来た……」

「え?」

「聡次郎さんに会いに来たって。でも私がいたから……」

「そうか……」

聡次郎さんは私の肩を抱くと「とりあえず入ろう」と部屋の中に促した。私をソファーに座らせると自身も隣に座った。

「梨香には言う必要ないと思ってたんだけど、この間直接愛華さんに付き合ってる人がいるって言ったんだ」

「そうなの?」

「いつまでも母さんに付き合わせたら悪いだろ。だから愛華さんと結婚するつもりはありませんって」

「それっていつぐらい?」

「何日か前」

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