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「梨香、二煎目」

そう言って空になった湯飲みを私の前に差し出した。

「もう飲んだの? そんなに飲むとお昼食べられなくなりますよ」

「ほっとけ」

聡次郎さんの湯飲みを持つと給湯スペースに行き電気ポットに残ったお湯を急須に注いだ。湯飲みにお茶を注いで戻ると、聡次郎さんが私の箸を持ってお弁当を食べていた。

「ちょっと!」

聡次郎さんが食べたのはニンジンの肉巻きだ。貴重なおかずに勝手に手を出されて怒らないわけがない。

「なに勝手に!」

「んー……まあまあだな」

口をモゴモゴさせてまたしても微妙な感想を言う。

「勝手に食べないでください!」

抗議なんて気にもしないで私の手から湯飲みを取ると「ごちそうさん」と言ってそのまま悪びれもせずに会議室から出て行った。

まったく……自分勝手な人なんだから……。

お弁当箱に立てかけられた箸はもう使えない。

「間接キスになるじゃんか……」

呟いても1人きりになった会議室では誰にも聞かれない。
仕方なく食器棚から割り箸を1善頂いた。聡次郎さんが使った箸が嫌なわけじゃないけれど、今朝は頬にキスをされ、その後に間接キスをするのは躊躇われる。あの人は一体何を考えているのだ。

会議室は静かでいいけれど、私の心は荒れていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



主婦である川田さんはお昼過ぎには帰ってしまい、もう1人のパートの赤城さんという人が出勤してきた。お茶の知識のある川田さんとは反対に、赤城さんは百貨店で働いていた経験から包みがとても上手かった。

「慣れないうちはセロファンテープで端を止めちゃった方がやりやすいかも」

赤城さんに指導され練習用のギフトボックスで何度も包む練習をした。包装紙はたくさんの折り目がつきボロボロだ。

「大変、松山様だわ」

赤城さんの慌てた声にお店の外を見ると着物を着た女性がお店に入ってこようとしている。

「あの方は気を遣うお客様なのよ」

それはどういうことだと詳しく聞こうとする前に松山様がお店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

私と赤城さんはお辞儀をして松山様を迎えた。

「こんにちは」

松山様は50代くらいの女性でどことなく品がある。

「今日は川田さんいないのね」

「はい。今日はもう退勤しました。申し訳ございません」

「玉露を淹れてもらおうと思ったのだけど残念だわ」

玉露といえば最上級のお茶だ。他のお茶と違って淹れ方にも気を遣う上に高価で練習することができないから、玉露に関しては私はまだ淹れたことがない。

松山様は店内を見渡し、立ち尽くす私に目を留めた。

「あら、新人さん?」

「はい、三宅と申します。よろしくお願い致します」

「今日はあなたに淹れてもらおうかしら」

そう言われて焦った。

「あの、でも玉露は私には……」

「いえいえ、あなたが玉露を淹れるなんて無理なのは知っています。龍清軒をお願い」

松山様は「ほほほ」と上品に笑ったけれど、私はバカにされているように感じた。

「かしこまりました」

いつものように急須にお茶の葉を入れ、釜から茶杓ですくったお湯を茶碗に入れる。いつものようにお茶を注いで松山様が待つテーブルに置いた。いつも以上に緊張しながらもいつもと変わらず龍清軒を美味しく淹れたつもりだ。

「いただきますね」

松山様は両手で茶碗を持つとじっくり味わうように飲んだ。

「おいしいわ」

「ありがとうございます」

ほっとした。お茶の知識と味がちゃんとわかっていそうなお客様に出すなんて不安だったから。

「龍清軒はどんな人も美味しく淹れられるから素晴らしい商品ね」

この言葉にほっとした気持ちはしぼんだ。私の淹れ方がうまいのではない。龍清軒が素人でも美味しく淹れることのできるお茶だと褒めたのだ。

「来客用にも普段使いにもできるのはここのお茶だけね」

「ありがとうございます」

赤城さんは笑顔で応じたけれど私は上手く笑顔が作れない。

「今日もこれをいただきます」

松山様は龍清軒の袋を5袋レジに持ってきた。

「また来ますね」と言ってお店から松山様が出て行くと「ふう……」と赤城さんは溜め息をついた。

「松山様は老舗旅館の女将さんで、旅館で使うお茶を買いに来るの」

「そうなんですね……」

「松山様の言葉は気にしなくていいのよ。川田さんが淹れたお茶にも厳しい評価なんだから」

「え?」

「あまりお茶を褒めない人でね。でもあの人に認められたら自信を持っていいかも」

では褒められる日がくることは永遠にない気がする。聡次郎さんにだって美味しいと言われたことはないのだから。

「厳しいことを言いたいだけなの。文句を言うけど必ず何かは買っていくんだから我慢我慢」

「はい……」

お茶を淹れる。お茶を飲む。たったこれだけの事が龍峯に来るとすごく難しいことのように感じた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



今日は久しぶりの何も予定がない休みだ。
恋人もいないし、生活のため仕事漬けだったこの数年間ほとんどの休日は家で過ごしている。ここ最近は連続勤務で家にいる時間が少なかったから洗濯物も干せないでいた。

今日は洗濯と掃除をして、撮り溜めていたドラマを見てのんびりしよう。

洗濯機がピーっと鳴り停止する。洗い終わった衣類を洗濯カゴに入れたとき、玄関のチャイムが鳴った。宅急便だろうかとドアスコープを覗くと、聡次郎さんがドアの外に立っていることに驚いた。
いつかと同じような状況に呆れてドアの向こうに「何の用ですか?」と声をかけた。

「お前さ、朝の挨拶よりも先に用件聞くのかよ」

ドアの向こうから聡次郎さんの不機嫌な声が聞こえる。不機嫌なのは私も同じなのだ。

「おはようございます……なんで来たんですか?」

まるで迷惑だと言っているような口調を誤魔化しきれない。でも実際突然来られては迷惑なのだ。

「用がなきゃ来ちゃいけないのかよ? 一応婚約者なんだけど」

確かに婚約者だ。けれどそれは本当の関係ではない。休日まで聡次郎さんと会う必要はない。

「今日はお休みだから……」

だから帰ってほしい。自分でも驚くほど低い声が出た。契約を交わしたからといって聡次郎さんに振り回されるのは御免だ。

「とりあえず開けろよ」

「………」

私が渋々ドアを少しだけ開けた。

「おはよ」

スーツじゃない私服の聡次郎さんが無表情で立っている。

「おはようございます」

2度目の挨拶は先ほどよりも抑揚がない。

「婚約者とデートしないなんておかしいだろ?」

「デート?」

「今日は俺も休みなの。母さんと兄さんに梨香と会うって言って出てきたんだ。休みにはデートする仲睦まじい恋人同士だって思わせなくちゃいけないだろ?」

「私に会うって言うだけで実際には会わなくたっていいじゃない」

勝手に1人でどこかに出かけてくればいいのだ。

「1人じゃ行きにくいところに行きたいんだ。できれば梨香に一緒に来てほしい」

「私今日は忙しいので」

「そうか? 暇そうに見えるけど」

聡次郎さんはドアの隙間から私の全身を見た。

「家事で忙しいんです!」

恥ずかしさがこみ上げた。髪は起きてからそのままでボサボサだし、上下グレーのスウェットで何の色気もない格好。もちろん化粧もしていないすっぴんだ。だからドアを開けたくなかったのに。

「頼むよ」

その言葉はいつもと違う言い方だ。変わらず無表情だけれど声は少しだけ必死な気がした。引く気がない聡次郎さんに戸惑う。

「でも……やらなきゃいけないことがあるので時間がかかりますよ?」

「待ってる」

「出かける準備もしなきゃいけないので1時間くらいかかりますよ?」

「平気。待ってる」

1時間と聞いて諦めてくれるかと思ったけれど、聡次郎さんは本当に待つ気でいるようだ。
実際には1時間なんてかからない。でも洗濯物を干して着替えて化粧をしなければいけないのだ。

「仕方ないですね……下で待っててください」

「わかった」

そう言うと聡次郎さんはドアから離れアパートの階段を下りていった。ドアを閉めると私は溜め息をついた。
突然来てデートなんて言われたら困ってしまう。何も心の準備ができていない。聡次郎さんと長時間行動を共にするなんて神経が磨り減りそうだ。

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