バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

「お待たせしました……」

更衣室を出ると花山さんが私の全身をチェックした。

「髪の毛はそれでいいです。毎回必ず結んでください。今後染めることがあれば明るい色は避けてください。アクセサリーは厳禁です」

「はい……」

今の私はほぼ黒と言ってもいい色で、肩まで伸びた髪を1つに結んでいる。カフェの規則でそうしているのだけれど、ここは飲食業でもないのに髪型にも決まりがあって大変だ。
花山さんに一通り社内を案内され、倉庫に置かれた商品の説明や営業部のあるフロアで何名かの社員を紹介されたけれど、早口で淡々と話す花山さんの言葉は頭に入らない。事前に月島さんに案内されていなければ覚えるのも一苦労だっただろう。
1階に戻ると「あとはパートさんに任せますのでお店に出てください」と言われて焦った。

「あの、花山さんはお店に出られないんですか?」

「基本接客はパートさんにお任せしています。商品の詳しい説明や本店の中のことは私は教えません」

花山さんは社員なのに本店のことをパートに任せるなんて、名の通ったお茶屋の社員がそれでいいのだろうか。

「わかりました」

事務所から店舗へ行くドアをノックしてから開けた。
初めて入った本店の中は左右に商品の並んだケースが置かれ、入り口と平行するようにレジと急須や湯飲みが入ったガラスケースがあった。中央には黒い木製のテーブルとイスが置かれている。レジの前には1人の女性が立っていた。

「川田さん、あとはお願いします」

花山さんに川田と呼ばれた女性が「わかりました」と返事をすると、花山さんは奥の事務所に戻ってしまった。

「川田です。よろしくお願いします」

「三宅です。よろしくお願いします」

お互いに軽く頭を下げ合った。川田さんの年齢は私の母親の少し下かもしれない。ふっくらした体つきと優しい笑顔には親しみやすそうな印象を持った。

「まずはお店での接客を教えますね」

「お願いします」

「お客様が来店されたらお顔を見て45度お辞儀をして、いらっしゃいませと声をかけます。そうしてお茶を1杯お出しします」

川田さんはレジの後ろに置かれた台の前に立った。腰の高さほどの台には両腕で抱えないと持てないだろう大きさの釜が嵌め込まれ、布巾や急須や茶道に使われるだろう道具が置かれていた。
ここに置かれているということはこれら茶道の道具の使い方も覚えるということだろうか。お茶なんて点てたことがない。一気に不安が湧いた。

「お茶の淹れ方はあとで教えますね。お客様が商品を決められたら、ご自宅用なのか包んだ方がいいのかをお聞きします」

そう言って川田さんはレジの横に置かれた段ボールを指差した。

「あそこに入った包装紙で商品を包みます」

「包みのやり方も……」

「そう、練習してもらいます」

気が遠くなりそうだ。ラッピングなんてやったことがない。このお店にある様々な形をした商品を包装紙で包むなんてできる気がしない。

「いらっしゃいませ」

川田さんの声に入り口に目を向けると店内にお客様が入ってきた。慌てて川田さんに倣って「いらっしゃいませ」と言うと45度を意識してお辞儀をした。
来店したお客様はライトグレーのスーツを着た30代くらいの若い女性だった。とても日本茶を買いに来るようには見えないイメージで意外だった。
お客様が店内の商品を見ている間に川田さんは釜の中のお湯を茶杓で掬い茶碗に入れ、急須にお茶の葉を入れ茶碗のお湯を急須に入れた。数十秒たって急須のお茶を湯飲みに注ぐとトレーに茶托を載せ、その上に茶碗を載せて中央のテーブルに運んだ。

「よろしければお召し上がりください」

そうお客様に声をかけ、女性は「ありがとうございます」とイスに座った。
台の横に立つ私の近くに戻ってきた川田さんは「今みたくお客様にお茶をご用意してください」と笑顔で教えてくれた。
これは簡単そうだ、と安心した。飲み物を提供するのはカフェの仕事と変わりない。

「今お客様にお出ししたのは龍清軒という龍峯のメインのお茶です」

「りゅうせいけん……」

それは以前聡次郎さんが淹れてくれたお茶のことだ。あの時飲んだお茶は普段ペットボトルで飲むお茶とは比較にならないほど渋くて、土が混じっているのではと疑いたくなるほど濃い味と濃い緑色だった。正直あれをお客様にお出ししてもいいものだろうかと心配になるのだけれど、座ったお客様は湯飲みのお茶を綺麗に飲み干した。

「ごちそうさまでした」

そう言って茶托と茶碗を川田さんのところに持ってきてくれた。

「恐れ入ります」

茶碗を川田さんに手渡したお客様は「これは龍清軒ですか?」と聞いた。

「そうです。やはりお気づきになりましたね」

「これが1番美味しいですから。先日買ったものも一煎目はまあまあでしたが、二煎目三煎目も味わうなら龍清軒ですね。なので今日も龍清軒にします」

「いつもありがとうございます」

川田さんが商品棚から淡い緑色の袋を取りレジを打ち始めた。手際よく袋に詰めるとお客様に手渡し、お客様は笑顔でお店から出て行った。

「ありがとうございました」

川田さんが45度お辞儀をしたのに倣い慌てて私もお辞儀をしてお客様を見送った。
一連のやり取りに首を傾げるばかりだ。今のお客さんが龍清軒を1番美味しいと言ったのも理解できないけれど、『いっせんめ』だの『にせんめ』だのの単語もわからなかった。

「今の方は常連さんで、お茶にこだわりのある方です。うちの商品を会社で飲む用に買いにきてくださいます」

「そうなんですね」

今時急須で淹れるお茶を買いに来る人なんているのだろうかと思ったのだけれど、歴史のある大企業というだけあってお客様はいるのだ。ここはオフィス街だから会社で飲むためにお茶を買いに来る人が多いのだろう。

「ではお茶の淹れ方を教えます。まずはうちのメインである龍清軒を飲んでみますか」

「はい……」

1度聡次郎さんに淹れてもらって飲んでいる。またあの渋いお茶を飲むのは抵抗があるけれど、そんなことは言えない。

「まずは急須に人数分のお茶の葉を入れます」

川田さんは台の上に置かれた黒い茶筒の蓋を開け、中に入っていた黒いプラスチックの茶さじでお茶の葉を掬い急須に入れた。

「お茶の葉は1人2グラムから3グラムです。今は私と三宅さん2人が飲むから5グラムから6グラム。この茶さじ1杯ってとこね」

私は川田さんの説明を必死にメモに取る。

「茶碗にお湯を入れます。今は湯飲みでやりますね」

台の下の引き出しを引いて湯飲みを2つ出した。

「お湯を最初に茶碗や湯飲みに入れるのは器を温めるためと、お湯の量を量るため。お茶の葉がお湯を吸うから少し多めにお湯を入れます」

川田さんは釜の蓋を開けた。釜の中にはお湯が入っている。台に嵌められた釜は電熱線で温められ、中のお湯は常に高温になっているようだ。

「湯飲みのお湯を急須に入れます。そうして40秒ほど待ちます。龍清軒はお湯の温度も70度から80度が適温かな。釜のお湯は高温だから1度湯飲みに移すと大体10度下がるからちょうどいいの」

ただお湯を注げばいいだけだと思っていたのに温度も秒数も細かく複雑で、混乱しないようにメモ帳に慌てた汚い字で単語と数字を書きなぐる。

「龍清軒の袋の裏には1分ほど蒸らすって書いてあるけど、実際は40秒から50秒がちょうどいい気がするわ。1分じゃ濃く出すぎちゃう」

「はい……」

「40秒たったね」

川田さんは壁にかけられた時計の秒針を見て急須を手に取った。

「湯飲みにそれぞれ少しずつ数回に分けて注ぎます。こうすると全ての湯飲みの味と量が均一になるの」

2つの湯飲みに少しずつお茶を注ぎ、最後の1滴まで注ぎきるように急須を傾けた。

「よく急須を揺すって注ぐ人がいるけれど、あれは濃く出すぎちゃったりするから素人は揺すらないで数十秒じっと蒸らした方が美味しく淹れられます」

説明を理解する前に書くことに必死になってしまう。茶碗に最初にお湯を入れて温めることや、少しずつ数回に分けてお茶を注ぐことは小学校の家庭科の授業で習った記憶があった。けれど温度や時間はここまで細かかった覚えはない。

「さあ、龍清軒飲んでみて」

湯飲みに注がれたお茶は濁った濃い緑色。けれどそれは聡次郎さんが淹れてくれたものほど濃くはなかった。

「いただきます」

しおり