バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ


日中は暖かいと感じることが多くなる季節になり、今日は17時までの勤務を終えて駅から少し離れた事務所で着替えると、事務所の鍵を返しにお店に戻った。駅の構内からガラスの向こうの店内を覗くと、私が退勤する前よりも更に賑わい満席になっていた。

「梨香ちゃん」

お店の自動ドアの前で声をかけられ振り返ると常連のお婆ちゃんが立っていた。

「あ、こんにちは」

「こんにちは。梨香ちゃんはもう帰るの?」

「はい。今日はもう上がりです。もしかして食べに来てくれたんですか?」

「そうなの。でも今日はお客さんいっぱいみたいね。また梨香ちゃんがいるときに来るわね」

残念そうな顔をするお婆ちゃんに申し訳なさが増す。

「すみません、またお待ちしてますね」

笑顔でお婆ちゃんと別れた。もう何年も通ってくれるお婆ちゃんは私のことを「梨香ちゃん」と親しみを込めて呼んでくれる。離れて暮らすお孫さんと私が似ているのだという。

お店に鍵を返し駅を出ると自宅方面まで歩いた。夕方で帰るのではなく本当は閉店まで長くシフトに入りたいけれど、他の学生バイトとの兼ね合いもあって私だけが長時間働きたいというのは難しい。
もう1つ新しいバイトを探した方がいいかもしれない。求人情報を検索しなければ。ふと横を見ると24時間営業のファミレスがある。
こういうところの入り口には確か求人情報誌があったはず。
ファミレスのガラスの扉を開けると目の前のラックには思ったとおり数種類のバイト情報誌が置かれていた。
1冊ずつ手に取り帰ろうと思ったけれど、これだけ持っていくのは悪い気がして軽く食事でもしていこうかと思ったとき

「すみません、駅の中にあるカフェの店員さんですよね?」

後ろから声をかけられ振り向くと1人の男性が立っていた。見覚えのない男性は私より少しだけ年上だろう。スーツ姿で私をじっと見つめている。

「はい……そうですけど……」

突然職場を言い当てられて身構えた。この男性は私を知っているようだけど私は全く知らない人だから。

「あの、少しお話があるんですけど、お時間いいですか?」

「え?」

ますます肩に力が入った。男性は背が高く、程よく筋肉のついていそうな体形だ。思わず手に持った求人情報誌を丸めた。万が一変なことをされそうになったら武器にしようと思った。とても頼りない武器だけれど。

「お話ですか……?」

「お時間は取らせませんので。この店の中で話しても構いません」

男性はファミレスの中へと手を差し示した。
もしかしてナンパだろうかとほんの少し気分が良くなったけれど、得体の知れない男性と近づくのは抵抗があった。

「お願いします。僕の話だけでも聞いていただけませんか?」

必死な顔で私を見るこの男性に「少しだけなら」と返事をしてしまった。店員や他のお客さんのいるファミレスの中なら、最悪の状況になっても助けを求められるので話だけは聞いてみようと思った。どうしてこの人が私の職場を知っているのか気になったから。

席に案内されると向かい合って座り、男性はメニューを差し出した。

「好きなのを頼んでください。僕が奢りますから」

「でも……」

「遠慮しないでください。実はお願いしたい事があるんです」

「お願いですか?」

「まあ、まずは頼んでください」

男性は貼り付けたような笑顔でテーブルを滑らせるように私にメニューを押し出してくる。戸惑いながらも店員にドリンクバーだけを注文すると男性は自分もドリンクバーを追加した。

「飲み物は何を飲まれますか?」

「あ、自分で行きます」

「いいえ、僕が取ってきますから」

男性は立ち上がろうとした私を制してドリンクを取りにいった。

「申し遅れました。僕は龍峯聡次郎と申します」

戻ってきた男性は私の前にオレンジジュースの入ったコップを置くと名刺を差し出した。

「たつみね……そうじろう……」

名刺の名前を声に出して読んだ。名刺には大手飲料メーカーの社名が印字されている。

「あの、私にどんな御用でしょうか?」

「実は僕の婚約者のふりをしていただきたいんです」

「は?」

「僕の婚約者として親に会っていただきたいんです」

「………」

真顔で告げられた意外な要件に体が固まってしまった。得体の知れない目の前の男性が気味悪く思えてくる。

「突然こんなことを言われても困りますよね。でもこれは是非あなたにお願いしたいんです。もちろんお礼はいたしますので」

どういうことだともっと詳しく話を聞こうとしたとき、龍峯さんの携帯が鳴った。

「ちょっと失礼します」

龍峯さんはカバンからスマートフォンを出し画面を見ると、私に軽く頭を下げ電話に応答した。

「もしもし……ああ、今駅を少し歩いたとこのファミレスにいる……彼女も一緒だ……お前も来てくれ……じゃあな」

龍峯さんは通話を終えると「すみません」と再び私を見た。

「今もう1人会社の者が来ます」

そう言われてもますます混乱するばかりだ。

「あの……どうして私なんですか? 婚約者のふりだなんて、他にも頼めば協力してくれそうな人はいくらでもいるのに」

龍峯さんは爽やかなルックスで大手に勤めている。年も20代後半といったところだろうか。頼めば婚約者のふりをしてくれる女性は周りにたくさんいそうだ。お金を払いさえすればそういったプロの人だって雇えるのに。

「実はカフェであなたを知って、僕の家族に紹介して納得してもらうにはあなたが1番適任だと思いました」

ということはこの人はカフェに来たことがある人なのだろうか。私はこの人と初めて会ったのに家族に紹介してもいいと思うなんて怪しいことこの上ない。

「どこがそう思うんですか?」

「気が強いあなたなら僕の親にも負けずに機嫌を上手い具合に損ねてくれそうです」

「はあ……」

気が強い……未だかつてそんなことを言われたことはなかった。どちらかというと気が弱いと言われてきたのに。

「それなら私には絶対に勤まりません……」

そう言ったとき龍峯さんが出口に向かって手を上げた。その視線の先を見ると1人の男性が入り口からこちらに向かって歩いてきた。

「あ! え?」

歩いてきた男性に見覚えがあって思わず声を上げてしまった。ダークグレーのスーツに銀フレームのメガネをかけた男性はカフェによく来るイケメンだった。

「お待たせしました」

私たちのテーブルの横で頭を下げ挨拶をすると、すぐに顔を上げた男性は私の顔を見て目を見開いた。

「あなたが来てくださったんですか? ではあなたが相沢さんだったんですか?」

男性の質問に私も驚いた。

「え? 違います、私は三宅ですが……相沢は私の後輩です」

「は? 相沢じゃないの?」

龍峯さんも思わずテーブルに身を乗り出した。

「あの……違います……」

この状況に混乱した私は不安から両手を組んで膝の上で握り締めた。

「どういうことだ?」

龍峯さんは今来たばかりの男性に助けを求めるように視線を向けた。

「失礼します」

そう言って男性は龍峯さんの隣に座った。2人に見られて私の緊張は最高潮だ。

「私は月島明人と申します。この龍峯の友人です」

イケメン男性はそう私に名乗った。

「あなたはカフェの店員ですが相沢さんじゃないのですよね?」

「はい……」

月島さんの言葉に私は頷いた。

「はぁー間違えた……探してた相沢はあんたじゃなかったのか……」

顔を手で覆った龍峯さんは恥ずかしそうに呟いた。月島さんはそんな龍峯さんの様子に呆れた顔をしながら口を開いた。

「どうやらこの龍峯が人違いをしてしまったようです。我々は駅の中のカフェに勤めている相沢さんという女性にお話しがあったのです。私は相沢さんの顔を存じているのですが、龍峯は名前しか知らなかったので」

「そうだったんですか……でも私は相沢ではなく三宅です」

「申し訳ありませんでした」

「はぁ……相沢じゃないのかよ」

龍峯さんはさっきとは別人のように声に苛立ちを感じた。

しおり