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「燃えてる」母がさけぶ。
 同時に、突然熱い風が私の顔にぶつかってきた。
「うわっ」箒にまたがって飛びながら、思わず目をぎゅっと閉じ顔をそむける。
 箒は私がそんなことになっても、木々にぶつからないようによけながら、大急ぎで前へ進んでくれる。
「ポピー止まって」母がつづけてさけぶ。
「わっ」私のツィックルはただちに止まり、私の体は箒にまたがったまま前につんのめりそうになる。
 顔を腕でまもりながら目を少しあけてみると、先の方で森の木々が炎で焼かれているさまが見えた。
 真っ赤な炎が、木々を支配するかのようにのさばり、木々の苦しみなんかおかまいなしのようすでむさぼりつくしている。
 菜園界のものとはかたちがちがうけれど、それでもさっき森の中でながめた地母神界の木々はりっぱで、たくさんの枝をつけ、りりしくそびえていたのだ。
 それらがいま、容赦なく赤い炎に燃やされ、水をすべてうしなって枯れはて、焦げて粉のようにくずれ落ちてゆきつつある。
「ひどい」母がかすれた声で言う。
 私の中にもおなじ言葉しかうかばなった。
 ひどい。
 木々が、燃えながらふるえている。
 たすけてくれと、もがいているみたいだ。
 私は目をそらすことができなかった。
 どうすればいいの?
 どうにかしないと!

「ツィックル」祖母がさけんだ。

 はっとして祖母を見る。
「水を」祖母がつづけてさけぶ。
 水?
 ツィックルに?
「ツィッカマハドゥル?」私の横で、ユエホワが眉をよせながら言う。「けど、届くのか」
 そのとき、

 ばりばりばりばりっ

という、耳をつんざくほどの大きな音――なにかが裂けるような、あるいは雷がすぐ近くに落ちたような、おそるべき大音響がひびきわたった。
「あれは」ユエホワが遠くに目をうばわれながら言う。「なんだ」
 同じ方向を見て私は言葉をうしなった。
 それは、木々をのみこむ炎のさらに上、おおいかぶさるように伸びてきた、まわりの木々の枝たちだった。
 炎のまわっていないはなれた場所から、木々が枝を炎の上へとのばしてきたのだ。
 そしてその枝についているさまざまな大きさ、色、かたちの葉っぱたちから、雨のように水がふりそそぎはじめた。
「うわ」ユエホワが小さくうなる。
「雨……葉っぱが雨ふらせてるの?」私はぼうぜんとしながらきいた。
「そう、根から吸い上げた水をね」祖母が答える。「でも足りないわ。これではあの炎を消すことはできない」
 つまり、ツィッカマハドゥルによりツィックルがほかの木々へ、枝をのばし葉っぱから水を放出するよう命じたということだ。でも地面の土そのものが乾いているから、いくらがんばって木々が根から吸い上げても、炎を消すには足りないのだ。

「うわーひでえことすんなあ」

 そのとき頭上からギュンテの声が聞こえ、見上げると空はいつの間にか暗くくもっていた。
 その直後、ざあっ、と大きな音がした。
 ギュンテによりたちまちのうちに呼び寄せられた雲が、大量の雨を空からふらせたのだ。
「うわっ」
「つめたい」
「なんだ」人々は箒にまたがったまま、とつぜんふりはじめた大雨に身をすくませた。
 私たちは全員、あっというまにずぶぬれになった。
「あ、すまねえ」ギュンテが上からあやまる。「多少の雲じゃ足りねえと思って思い切りやったら多すぎたな」
「たく、なにやってんだよっ」ユエホワが私の横で文句をいう。「ポピーが怒ってるぞ。こんな神さま大きらいだって」
「え」私はびしょぬれになって顔にはりついた髪をかきあげながらおどろいた。「なにいってんの」
「えっ」ギュンテも空の上でおどろいていた。「まじか。ごめんなポピー。うひゃーやべえ、ごめんごめん」
「ううん、だいじょうぶだよ」私は大きな声で頭上にむかってさけんだ。
「炎が消えていくぞ」
「おおお」
「神よ」
「ありがとうございます」人びとが口々にさけぷ。
 はっとして燃えていた木々の方へ目をやると、たしかに森ごとのみこもうとしているかのように見えていた大火はみるみる小さくなってゆくところだった。
 私たちの上に雨がふってきたのはほんの少しのあいだだけだったので、ギュンテの力により雲がぜんぶまとめて木々の方へ移されたんだろう。
 私はほっとひと安心した。
「ポピー、怒ってないか?」ギュンテがまだ心配そうに声をかけてくる。
「あ、ぜんぜん怒ってないよ。ユエホワは大うそつきだから信じなくていいよ」私は急いでまた上を向き答えた。
「そっか、よかった」木々の梢の向こうで、小さな雲の上に乗ったギュンテが顔だけのぞかせてにっこり笑い「ユエホワ、あとでな」と言って真顔になった。
「う」ユエホワは肩をすくめ「いや、それよりツィックルはだいじょうぶかな」と話をそらした。
「そうだわ。行きましょう」祖母が先頭にたって箒を飛ばし、皆その後につづいた。

「なんてこと」祖母は箒にまたがったまま、それしか言えずにいた。
 祖母のツィックルは、真っ黒にこげ、炎が消えたとはいえまだたくさんの煙を上げてそこに立っていた。
 皆、なにも言えなかった。
 この木は、自分が燃えているにもかかわらず祖母の魔法にしたがい、他の木々へ命じて水をかけさせたのだ。
 自分にも水をかけるように伝えたんだろうか?
 いや。
 たぶんこの木は、自分よりも他の木々を助けるよう命じたのだろうと思う。
 なぜなら、祖母が箒から下りて近くに来たことを見とどけたあと、その木は――真っ黒にこげた偉大なツィックルは、音もなくこなごなにくだけ、風に飛ばされて姿をうしなってしまったからだ。
「ああ」祖母はふるえる手をのばしたが、もうその幹にふれることすらできなかった。
 とても長い間、私はなにも言わずたたずむ祖母の背中を見つめていた。
 祖母が泣いているのだと思っていた。
 言葉もなく、ただ涙を流しむせび泣いているのだと。
 そう、思っていた。
 けれど、違った。
 祖母はおもむろに、右手を高くさし上げた。
 その手のひらには、白いキャビッチがのせられていた。
「ピトゥイ」祖母はさけんだ。
 ツィックルの生えていた位置の向こうがわに、とつぜん何人か人の姿が現れた――かと思うと次の瞬間、その中の一人が祖母のキャビッチを鼻先にくらってふっ飛んだ。
「うわっ」私もユエホワもほかの人々も、目をまん丸く見ひらいてさけんだ。
 母だけがさけぶこともなく、ただ祖母に続いてキャビッチを投げた。
 けれどそれは惜しくもよけられてしまった。
「投げろ」他のだれかがさけぶと同時に、皆はいっせいにキャビッチを投げつけはじめた。
 何個かはよけられ、何個かは当たり、
「ピトゥイ」
「ディガム」
「マハドゥーラファドゥー」
「ゼアム」
「うわっ」
「くそっ」
 たくさんの呪文やさけび声が飛びかった。
「ポピー、ピトゥイを」祖母がキャビッチを投げながら私にさけぶ。「あの薬を使って」
 私ははっとして、いまはじめて思い出したものを大急ぎでリュックから取り出した。
 ヨンベのおじさんにもらった、小さなガラス瓶。
 緑色と金色を混ぜたような、目をひきつけるほどに美しい色。
 ふたをあけ、キャビッチにぱぱっとふりかけて上にさし上げ「ピトゥイ」とさけぶ。
 なんということだろう。
 大地の上に三十人ぐらいのアポピス類の姿がとつぜんあらわれた。
「うわっ」
「うわっ」
「うわっ」
 私だけでなくユエホワも、他の人びとも、目をまるくしてさけんだ。
「ひるまないで」母がすぐにつづける。「投げて」みずからキャビッチを投げながらさけぶ。

 じゅうっ

 熱いフライパンの上で水が蒸発するときのような音がした。
「えっ」母がきょとんとする。
「あっ」
「なんだ」
「消える」他の人びとも、声にする。
 私もキャビッチを投げた。
 けれどそれは何にも当たることなく、空中でじゅうっ、と消え、白い煙が残った。
 一瞬のうちに、焼け焦げて灰になったのだ。

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