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第九十三話 青と炎

 しばらくすると、泣き声が弱まり、会場からもその声は聞こえないレベルまでになっていた。焔を抱き寄せる手にも力がなくなっていく。そのことを確認すると、焔は徐々に力を緩めていく。そして、そっとそっと、眠っている赤ちゃんを起こさないようにそっと手をどける。

 そうして、肩に手を置き顔を覗き込む。すると、さきほどまで名無しと呼ばれた人間はそこにはおらず、ただの泣きじゃくる少女の姿しか目に移らなかった。焔は安堵のため息を漏らすと、安心したのか、今までの疲労が一気に押し寄せたかのような感覚に陥る。そして、崩れ落ちそうになる。

 だが、誰かが焔の腕を掴み、ずり落ちるのを阻止した。振り返ると、そこには見慣れた顔があった。

「……シンさん」

 シンはいつもの笑顔を崩さず、そのまま焔の頭に手を置き、わしゃわしゃと掻きまわす。

「……よくやった」

「……ハハ、シンさんの出す課題はいつも鬼ムズなんですよ。もうちょい加減してくださいよ」

「そうしたいのも山々なんだけどねー。最終的にはいつもクリアしちゃうでしょ?」

「ハ……ハハ、そう……でした……ね……」

 そう言い残すと、焔は意識を失い、シンの体に身を任せるように倒れていった。

「あらら……ま、これだけ終焔モード酷使したら、そりゃ無理もないか。今はゆっくりと休めよ。ヒーロー」

 そう言って、優しい表情を見せたシンの先には全ての力を出し切ったかのように眠る小さなヒーローの姿があった。

「……あっ」

 何かを言いたそうな声がシンの前から聞こえた。すると、そこにはいまだに涙を流しているが、他人を心配できるほどの余裕が出来たのか、少女が心配そうに焔のことを見ていた。シンはその様子を見ると、微笑み、頭を撫で始めた。

 少女は一瞬ビクッとするが、シンの顔を見ると安心したように目を閉じ、焔と同様に倒れ込む。焔を抱えたままだったので、シンは反応が遅れる。だが、そのことに気づいたヴァネッサがすかさず体を入れ、倒れるのを阻止する。

「いやー、助かったよヴァネッサ」

「反応が遅いぞ、シン……まあいい、取り敢えず2人とも早く医務室に運んだほうがいい」

「ああ、そうだね……じゃ、総督、第三試験も終わったことだし、焔たちは一旦こちらで預かりますね」

「ああ、好きにしろ」

 通信機ごしから総督の了解を得ると、シンとヴァネッサは2人を連れ医務室へと転送されていった。そして、先ほどまでの戦闘の余韻からまだ抜け出さていない受験生が数多くみられる中、総督はその余韻を覚ますかのように大きな声を上げる。

「これにて全ての試験は終了! みなご苦労であった! 結果についてはまた後日発表させてもらう! 何か不審な点等があれば、AIに伝えろ! では解散!」

 そして、会場は先ほどまで繰り広げられていた白熱した戦いの残像を残しながら、再び喝采を浴びる、その日まで、また静寂を纏うのだった。


―――「………ん…」

 静かな空間で焔は不意に意識が戻った。ゆっくりと瞼を開けると、そこには知らない天井があった。首を動かし、現状を把握する。


 ここは……カーテンで仕切られてる。ああ、たぶん医務室だな。そういや、さっき意識飛んでたな。なるほど、あの時力尽きて、ぶっ倒れたんだな。ここまで、連れてきてくれたのシンさんかな。ハハ、皆にダサいとこ見られたな……そういや、あの子は……大丈夫かな。


 やっぱり焔は自身のことよりもあの少女のことが気になるようであった。そして、徐々に意識がはっきりしてくると、あることに気づく。


 あれ……なんか右腕のとこだけ妙に温かいな。何かあるのかな。


 焔は左手で反対側の腕の場所を探る。


 サラ……


 サラ……え? これって髪の毛……髪の毛!?


 焔はその感触が髪の毛であることがわかると、一気に目を覚まし、勢いよく布団をめくる。すると、そこには何とも安らかに眠る少女の姿があった。

「なんでやねん!!」

 思わず関西弁で突っ込んでしまうほどに焔は動揺していた。その後、どうすればいいのかとアタフタしていると不意にカーテンの外側から声が聞こえた。

「お! 起きたみたいだね」

 その声の主はすぐにわかった。

「シンさん!」

「おー、意外に元気そうじゃないか。AI、カーテンを開けてやってくれ」

 シンがAIに頼むと、すぐにカーテンは自動的に開く。突然の明かりに少し目を細める焔だったが、すぐにあたりを確認することが出来た。そこには保健室のような空間が広がっていた。そして、そこにいたのはシンだけではなく、ヴァネッサも同席していた。シンは湯呑みで熱々のお茶を、ヴァネッサはおしゃれなティーカップで紅茶を飲んでおり、何ともお国柄が出ていた。

 焔はてっきりシンだけかと思っていたが、他にも人がいたことを知り、さっきのツッコミが急に恥ずかしくなってきた。咳払いを一回すると、焔は態度を改める。

「シンさん、何でこの子が俺と一緒のベッドで寝てるんですか?」

「ズズズ……粋な計らい?」

「いらねえわ! そんな計らい!」

 そのやり取りを見ていたヴァネッサは顔をそらし、笑い声を押さえ始めた。焔はそのことに気づくと、急に恥ずかしくなったのか、顔がドンドン赤くなっていった。ヴァネッサも焔の様子に気づいたようで、

「いや、別に面白がっているわけではないんだ。今まで君にそんな一面があるとは知らなかったものでつい」

「あ、そうなんですね、ハハ……というか、シンさんこの人は……」

「ん? ああ、そういや初対面か。彼女はヴァネッサ。レオと同様にこの部隊の一応教官だ」

「一応とはなんだ? お前よりは立派に教官を務めているつもりなんだが」

「アハハ、これは失敬」


 ああ、この人たち仲いいな。


 会話を聞いていて、不意にそんなことを思った時だった。急に焔の横で少女が動き始めた。


 え? まさかお目覚め!? どうしよ……え!? どうしよ!?


 アタフタし出した焔は最終的にベッドの上で正座をすることで落ち着いた。

「お、おはようございます」

 目を覚ました少女にどう接していいのかわからなかった焔は取り敢えず敬語で話しかける。

「……おはよう」

 少女の顔からは今どんな気持ちなのかとかはわからなかった。だが、前みたいな仮面はもう被ってないことだけは分かった。安心する焔だったが、そこから沈黙が続き、再びあたふたし出す。

「あ、え、えっと……あの……」

 その様子を遠目から微笑ましく見ていたシンであったが、流石に可哀そうだと思ったのか、助け舟を出す。

「さて、2人とももう意識ははっきりしているかな?」

 2人はほぼ同時に頷く。

「そっか。そしたら……ちょっと座って話でもしようか」

 それから、2人は椅子に腰を掛けた。話でもしようか、と言ったシンであったが、そのほとんどが少女への質問だった。これまでのこと、記憶はどこまで戻っているかなど色々と聞いた。

「―――なるほど。それじゃあ、君はもう全ての記憶が戻ったんだね」

「はい……全部思い出しました」

「……そっか。じゃあ、もう自分の名前も思い出したかな?」

「はい。思い出しました」

「お! それは良かった」

「でも……もうこの名前は使いません」

「……そうか」

 シンがそう返した後、みんな次の言葉を失った。

「ど、どうしてだよ。せっかく自分の名前を思い出したってのに」

 静まり返る中、横に座っていた焔が少女に問いかける。少女はすぐに言葉を返す。

「私の名前を呼んでくれた人はもうこの世にはいないから」

 その言葉に更に言葉が出なくなる。この言葉にどう返せばいいのか、焔は必死に考える。だが、少女はまだ話を続ける。

「それに……あの頃の私ももういない。お父さん、お母さんが死んだとき、あの頃の私も死んだ。そして、名無しになった。でも、名無しになった私を今度は焔が倒してくれた」

「……そうだ。もう名無しはいなくなったんだ。そして、お前は記憶を、感情を取り戻した。だから、また昔みたいに」

「それはできない。記憶を取り戻しても、もう過去の私は帰ってこない……だから、今度は焔が私の名前を付けてほしい」

 急な頼みに焔は動揺をあらわにする。昔の名前を捨てて、新しい名前を付けてほしいと言われても、二つ返事で引き受けることなど到底できなかった。

「え、ええ? でも……本当にいいのか?」

「いい。私は焔に救われた。だから……」

「……焔、彼女の願いを受けてやれ。男なら引き受けたことは最後まできっちりとやり通さなきゃだめだぜ」

「……最後まで」

 その時、焔はようやく気付いた。この子はまだ救われていないのだと。名無しの呪縛を完全に解くには、過去との決別をしなくてはならない。そのためには過去に一度殺された名前ではなく、新たな名前が必要なのだと。そして、そのことに自身よりも早く気付いていたシンにはやはり頭が上がらないなと、焔は改めて思うのだった。

「……よし! いいよ。俺でよければ新しい名前つけるよ」

「……うん」

 少女の了解を得た焔は顎に手を当て考える。少女は焔から目を離さず、じっと見つめる。シンが湯呑みに手を伸ばし、いまだに熱いお茶を音を立てながら、口の中に流し込む。


 トン


 机に湯呑みを置いた瞬間、焔は目を開ける。

「……よし、決めた」

 そう言うと、焔は体ごと少女に向け、しっかりと目を見た。そして、目を見た焔はやはりこの名前しかないなと改めて思うのだった。

「あんたの新しい名前は……ソラだ!」

「……ソラ?」

 首をかしげる少女に焔は思っていた反応と少し違い、一瞬言葉が詰まる。だが、その反応のずれの正体をシンが教えてくれた。

「焔……名前というのは固有名称。今、この子にはソラという単語は日本語として聞こえてるんだよ」

「……ああ、なるほど!」

 焔はその意味が分かったのか掌を拳で叩いて、納得のポーズを示す。そして、再び少女へと向き返る。

「ソラというのは英語でスカイって言う意味なんだ」

「スカイ……お空のこと? じゃあ、何でソラっていう名前なの?」

「それは初めてあんたと会って思ったんだよ。目が凄くきれいだなーって。まるで青空みたいに澄んでいる綺麗な目だって」

「……私の目が……青空みたい……」

 少女はその言葉をかみしめるようにゆっくりと紡ぐ。

「ああ」

「でも、私の目は死人みたいだって」

「……確かに、そとっつらだけ見れば、そう見えなくもなかった……でも、俺には見えた。雲を超えた先に無限に広がる綺麗な青が……だから俺はお前にソラという名前を付けた! 誰にも文句は言わせねえ。誰が何と言おうとお前は青空にも負けない綺麗な目をしているソラだ!」

「……うん。今日から私はソラ」

 そう言って、ソラは初めて笑った。満面の笑みとはいかなかった。微笑にも似た小さな笑みだった。だが、確かに笑った。

 その瞬間、焔はわかった。なぜ、自分がここまでソラに執着していたのか。

「ハハ、やっぱり笑った顔が一番かわいいわ」

 まだ完全に感情を取り戻したわけではない。人よりも感情を出すにはおそらく長い年月が必要だろう。だが、もう少女の心の中には名無しという存在は消え去り、名無しがいた場所には新たにソラという少女が誕生した。

 名無しのいた場所はとても暗い闇の中だった。だが、そこにも色が付いた。まだ、色は小さく、視界は闇で覆われている。だが、もう少女は歩み止めたりしない。だって、ソラという名に恥じない青き目と、当たりを照らさんと燃える、小さくも消えることのない炎がそばにあるのだから。

「フッ、マサさんを超えることはできない……か」

 ヴァネッサは焔とソラが会話している姿を見て、不意にシンが言っていたことを思い出す。

「……ああ、超えることはできないよ……実力はね」

「……実力は……か」

 2人は無言になると、微笑ましそうに焔とソラの会話を聞きながら、残りの茶をゆっくりと楽しんだのだった。

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