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第9章:火口その4

 応えはなかった。ラルダは意識を伸ばしてリアの意識を探り捉えた。リアはずっと洞窟の奥の通路にいた。彼女が泣いているとラルダは感じた。堕ちた我が身を嘆いているのだと思った。
「今すぐここへ! あいつを溶岩に叩き落すのよ。ぐずぐずしないでっ」
「ラルダ。あなたは、なんて、痛ましい……」
 リアから切れ切れの思念が返ってきた。
「なに……? なにをいっているの? おまえは」

「あなたは心の底で自分を憎んでしまった。愛する人の血をむさぼって転化したことを許せず、あまりにひどい仕打ちに汚され歪められた自分を嫌悪して……。でもあなたは自分を滅ぼせない。だから他の人を全て憎むしかなくなったのよ」
 より明瞭な思念が返ってきた。
「あなたの思いはわかるわ。もし同じ目にあっていれば、きっと私も同じように歪んだと思う。私をこんな身に堕としたあなただけれど、とうてい憎む気になれない……」
「それはなに? 同情しているつもり?」ラルダは苛立った。
「ごたくはいいわ、従うのよ!」
「痛ましいラルダ……。でも、従うわけにはいかないわ」
「なんですって!」
「あなたはたしかに私の運命をねじ曲げた。でも牙が変えられるのは体だけ。私の心まで、魂まで思いどおりにできるなんて思わないで!」
 牙を介して結ばれた意識を通じ、空色の瞳がまっすぐラルダを見つめていた。

「あなただってそのおぞましい男と違うでしょう。心も運命も。当然よ! それほど憎み呪う相手のまねなんかできるはずがないもの。
 そいつだって転化させた相手とは似ても似つかないと思うわ。その嗜虐と邪悪さ、死んでからっぽになった者ではないはずよ。ただ渇きのみに駆られて動く者なんかじゃないもの。人間のまま転化して歪んだのよ、あなたとは全然違う形で。牙にかかれば人の身ではなくなる。でも心を、魂を変えるのは牙の力なんかじゃない。だからそいつも、あなたも、私もみんな違うのよ。
 だったら同じ運命になんか、地獄になんか、誰ひとり落とせるはずがないじゃない」
 ラルダはとっさに応えられなかった。やがて己が身が震えだすのを彼女は覚えた。
「……私がこうなったのは、私のあり方が、私がこうだったからだとでも、おまえはいうの?」
「あなたも本当はわかっているのよ。わかっているから呪わずにいられないんでしょう? だれもあなたと運命をともにはできないって。ラルダ、痛ましいあなた……。
 だからこそ、あなたの無念は晴らせない。たとえ全ての人間を牙にかけてもなんにもならない。魂の渇きは癒せない。不毛さに永遠に苛まれるだけよ」
「牙持つ身でありながら何様のつもり? おまえだって、おまえだっていずれ人間の血をむさぼるしかないくせにっ!」
「私はたしかにこんな身に堕ちた。でも、転化を遂げてしまってわかったわ。私の心は私のまま、いまも私のものだって」
 ラルダはその言葉を否定できなかった。いい返すことさえできなかった。

「私は自分が助かりたくてここへきたんじゃない。助かるはずがないと思っていたから。必ず死ぬと思っていたから。
 私の恐怖や絶望を他の誰にも味あわせたくない、ただその思い一つでここまできたのよ! 私が私である限りこの思いは変わらない。転化を遂げたいまも私の思いは潰えていない」
 ラルダは感じた。青い目に、空色の瞳に宿ったまぶしいまでに激しい光を。
「だから私は従わない! みんなに仇なすつもりなら! たとえあなたがどれだけ強くても、私が逆らって勝てる見込みなんかなくても!」
「小癪な!」怒りのあまりラルダの口から思わず声が出た。だがその怒気にも臆せず、リアは続けた。
「あなただってわかっているでしょう? なにかが違っていれば少なくとも心は、魂はこうではなかったはずだって」

 なにかが変だった、なにかが間違っていた。
 ラルダの心のどこかで声がした。
 あのときなにかが違っていれば……。
「黙れえーーーーーーっ!!」
 ラルダは絶叫した。驚いて自分を見るゴルツやアラードのことさえもはや眼中になかった。
「おまえに人の心を残したのが間違いだったというのね。ならばその心、いま握り潰してくれるっ!」
 ラルダは圧倒的な思念をリアに振り向けた!

 ラルダの気がそれたのをゴルツは見逃さなかった。尽きる寸前の気力を振り絞り、ぎりぎりの一撃を放った。
 ラルダが気づいたときはもう遅かった。見えざる刃が魂の中枢を直撃した。肉体を不滅たらしめていた力が砕かれ、彼女の姿は霧のように霞み始めた。
「おのれ、おのれえぇ……」
 身もだえしながらラルダは呻いた。
「なに一つ思いを遂げていない、無念を晴らせて、いないのに。こんな、ことで、こんな、ところ、で……」
「もはや、滅びの刻。還れ、神の御許へ」
 膝をつき肩で息をしながら、ゴルツが必死に呼びかけた。
「恨みを、残すな。妄執から、解かれよラルダ……っ」
「私に、神などと、いう、言葉を、吐、くな……」
 ラルダがいった。散りゆく声をかき集めるように。
「私は、望む。アルデガン、が、燃え、上がる、のを。呪、う、全、て、の、……者、を……」
 その声がついに絶え果てたとき、ラルダの姿は霧散していた。だがアラードには、その無念と呪詛がいつまでも洞窟にこだまを引いているように感じられた。

 こだまを追うように見上げたアラードの視線が、そのとき動くものをとらえた。
「閣下! あれは……」
 息を切らし膝を屈していたゴルツも顔を上げた。
 火口の上に人影が立っていた。焼けただれ顔も定かでなかったが、それでも急速に回復しつつあった。ラルダに仇なし苦しめた吸血鬼がついに這い上がってきたのだ!
 あいつをなんとかしなければ。アラードは焦った。だがラルダとの壮絶な戦いで消耗したゴルツは、まだ立つことさえできずにいた。
 やがて溶け崩れた顔に二つの目が開き、彼らを睨みつけた。
「我が牙の人形を、かくも得がたき慰みものを滅せしは汝らか。この小癪な所行への罰を存分に与えんとせしものを。
 ならばせめて汝らに仕置きを与えてくれるわ」
 それを聞いたアラードは怒りにかられて前にでようとしたが、異様な声に思わず足が止まった。

「き……さ……ま……ぁ」

 アラードにはそれが目の前のゴルツの発した声だとは信じられなかった。なにかが彼の知るはずの声とかけ離れていた。人間のものだということすら受け入れ難い声だった。
 ゴルツは息を切らしたまま、錫杖を杖代りに片膝をつき、火口の上の吸血鬼を見上げていた。アラードには崩れた顔の吸血鬼がたじろいだように見えた。
「きさまに、かける慈悲など、ない。肉体も魂も、もはや、還る場所など、ないと知れぇえっ!」
 その言葉とともに錫杖が輝き始めた、だが火口から吹き上がる焔に映えたせいか、アラードには先ほどの白い光とは異なり昏い赤みをおびているように感じられた。
 次の瞬間、地に突き立てられた錫杖から稲妻のような激しい閃光が迸った。それは地を走り火口を駆け上がるとまだ本来の姿を取り戻せていない吸血鬼を直撃した! 焼け爛れた吸血鬼が消し飛ぶと同時に、ゴルツもその場にくずおれた。

「閣下!」アラードは駆け寄り、助け起こそうとゴルツの正面に回りこんだ。だが、差し伸べようとした手が凍りついた。
 鬼の顔だった。緑の双眸は憤怒に炯炯と燃え、髪も髭もおどろに振り乱されていた。
 ゴルツとの戦いに臨んだラルダの鬼相そのものだった。まるで娘の怨念が解呪した父に取り憑いたかのようだった。
「……無念じゃ、もはや限界。リアを追うことはできぬ」
 ゴルツは呻いた。
「まだあれの犠牲者はおらぬ。居場所を探るすべもない。もはやこれまで……っ」

 立ち尽くすアラードに、やがて大司教が命じた。
「手を取れアラード。アルデガンへ転移する」
 ゴルツが呪文を唱えると、二人の姿は洞窟からかき消えた。
 火口からまた紅蓮の炎が吹き上がり、誰もいなくなった巨大な空洞を乱舞した。


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 リアが意識を取り戻したのは、全てが終わったあとだった。

あの瞬間、リアは支えの腕輪を握り絞めてラルダの凄まじい思念に抗がおうとした。
 しかし吸血鬼の理に逆らい自分を転化させた相手に抗がうのがそもそも無理な上に、ラルダの桁違いの意志力が相手では勝負にならなかった。最初の一撃でリアは昏倒したのだった。
 リアは支えの腕輪に目を落とした。いまだ輝きを失わない腕輪に、しかし亀裂が入っていた。これがなければ一撃で自分は魂を砕かれ、空ろな生ける屍としてさまよい歩いていたはずだった。いや、もう少し攻撃が続いていれば腕輪も砕け散り、同じ結果になっていたに違いない。
 だが、そのラルダの存在がぽっかりと消失していた。
 リアが意識をどこまで伸ばしても、洞窟の中にはラルダも、溶岩に焼かれたおぞましい男も、その他の吸血鬼もまったく存在が感じ取れなかった。
 彼女は悟った。洞窟に残った吸血鬼は自分だけなのだと。

 自分がどうすればいいのかリアは途方にくれた。洞窟の探索はなし遂げられ、アルデガンを襲った吸血鬼は滅んだ。だが自分がこんな形で取り残されることなど想像もしていなかった。探索の途中で自分は命を落とすものと思い詰めていたのだったから。

 まさか心を残したまま転化してしまうなんて……。

 もうアルデガンに戻るわけにはいかない。
 もし自分が戻ろうとするときは、それは……。

 彼女は脅えた。自分の想像のおぞましさに。
「おまえだっていずれ人間の血をむさぼるしかないくせに!」
 いなくなったラルダの残した呪詛が、それゆえそれ自体の意味を突きつけてきた。思わず呻き、耳を押さえた。
 やがてリアは立ち上がり、アルデガンから少しでも離れるべくよろめきつつも坂を下り始めた。洞窟の奥へ、地の底へと。この世の外へ通じる道がどこかにあるのを、溶岩でさえ焼き滅ぼせぬ呪われたこの身を無に帰せる場を、ただ一心に願いつつ。

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