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第62話 おかしな国のありす

「マズルは何で帰ってこないのよ! あたし、避けられてる? 今度会ったらピコピコ靴履かせてやろうかしら」
 ウーがピンク髪を怒髪しながらブーブー言う。
「それとも首に鈴の方がいいと思う? ねぇ時夫、どっちがいいと思う?」
「どっちもマズいだろ。子供や猫じゃあるまいし」
 昨晩、紅白を観て夜が更けたが、結局部屋に佐藤マズルが現れる事はなかった。
「金時君、ちょっと中に入っててくれる」
 ありすは102号室に時夫を押し込むと、ウーと雪絵と共に三人でドアの前に立った。
「実はもう帰ってるのかも。『シュレディンガーの猫』って知ってる? ……いや、知らないよネ。あ、つまりぃ、昔の量子力学の偉い先生で、シュレディンガーさんが思いついた面白いたとえ話なんだけれど、箱の中に猫を入れて、それと50パーセントの確立で崩壊する放射性原子があるとする。それを、センサーがキャッチすると毒ガスが出る装置が仕掛けられている。すると箱を開けるまで、猫は生きてる状態と死んでる状態が半々で重なってるって事になるの」
「……時夫死んじゃうの?」
 ウーがびっくりして訊いた。
「そーじゃなくて、このドアを今開けたら、時夫が出てくるか、それともマズルが出てくるか。確立は50パーセント……なのかもしれない。平行宇宙が折り重なったこの恋文町では、十分ありうるわ。それがつまり、量子効果ドアよ」
「まじ?!」
 ウーはガチャリと戸を開けた。ぼさーっとした時夫が突っ立っている。外のありすの説明は丸聞こえだった。
「わ~時夫さんだぁ!」
 雪絵、ありがとう。
「時夫居るじゃん!」
 ウーが不満顔。ウーは問答無用で閉めた。ご期待に添えなくて申し訳ない。
 ……ガチャ! 再び開ける。
「わ~時夫さんだぁ!」
 雪絵が拍手している。
「雪絵、ありがとう」
 バタン! ウーはまた閉めた。ガチャ! そして開ける。
「わ~時夫さんだぁ!」
 雪絵は白魚のような手でいつも小さく拍手してくれる。
「ありがとう」
 ありがとう、ホントありがとう雪絵! ありすとウーのがっかり顔に、時夫は今日ほど消えたい気分になったことはなかった。雪絵が居てくれたからこそ救われた。
「だって……マズルさんが出てきたら時夫さん居なくなっちゃうんですよね」
 雪絵はグズグズ涙ぐんでる。そそそ、その通りだ! マズルに会えたとして、俺はどうなる? 俺だけが皆と別れて、他の時空の恋文町に取り残される事になるじゃないか。雪絵にとって俺は、この世界に留まるための唯一の鎹(かすがい)なのだ。
「そうだ。その事忘れてた」
 ありすは実験を中止した。
「どーやら、量子効果ドアは失敗のようね」
 オイ……人を惨めな気分にさせといて、それで終わりかよありす。
「一つ分かったわ。手紙から感じるマズルの匂いがもうここにはしない」
 マズルはこれまで、たまたま102号室を居にしていただけで、もう町のどっかに行ったきりなのかもしれないとありすは結論した。最初にウーに当てた手紙の文面からすると、その可能性は高かった。

 曇天の綿飴から降りしきる、ベタベタとした水あめの中を、四人は団体行動で出かける事にした。ウーが薔薇喫茶から傘を四本取ってきた。客が忘れていった傘の束だそうだが、それに科術で結界が張られている。傘を差すと、水あめの魔学から防御できるのだ。これがないと飴になってしまう。
 後はありすの嗅覚に頼るしかなかった。「匂い大全臭」なんていう本をありすは恋文図書館で借りていたが、本当にあの本には何でも載っているんじゃないか。どうせ行くところなんてこの恋文町の中でしかないのだが、四人は佐藤マズルの痕跡を捜し求めて練り歩く。ウーが、きっと彼はこの「お菓子な国現象」の解明に役に立つはずだと強く推すのだから、信じてやるしかなかった。
「白彩工場の煙突から出る雲が作る、特殊な砂糖の飴(雨)を浴びる事によって、全ての地上の人間が、スイーツドールと化して、餌にされる。これが魔学」
 ありすとウーの科術が掛かった時夫たちを除いてである。
「ショゴロースを直に浴びると、町人全員がスィーツドールになってしまう。全てが置き換わる。十分に地上が砂糖化したら、蜂人が地上へ出てくる。白彩の陰謀は、すべての町の住人が菓子になるって事。そして地下でしか生きられない蜂人が地上で生きられるようになる。やがて蜂人たちが這い出してきたら、スイーツドールを地下の入口へと、続々と連行してゆくでしょう。誘拐されたスイーツドール達は地下でロイヤルゼリーとなって女王の餌になる。そして女王は卵を生む。それでまた、新しい蜂人が誕生するのよ」
 和菓子屋「白彩」の陰謀。それはもう恐ろしいものだった。女王蜂は地上に出る計画を持ち、ずっと機会を狙っていた。蜂人の子供を作る為にそれは始まった。以上の白彩の恐るべき計画のため、四人は傘を差しているが、これで完全に防御できているのかどうか、時夫は心配だった。
「だが、なんでだ? 雪絵はここに居るのに。女王が特殊なロイヤルゼリーである雪絵なしでこんな事ができるとも思えない……ハ! ひょっとしてファイヤークリスタル。キラーミンか?!」
 時夫はキラーミンがあれで終わった気がしなかったのだ。
「私もその可能性を考えた。女王が地上へ出てくるためには、地上の人間を誘拐して蜂人を誕生させるだけじゃ不十分なのよ。雪絵さんを手に入れられない女王は、ファイヤークリスタルの力を使って、地上をお菓子に変えようともくろんだ。おそらくはね。そうしてまず環境を整えた上で、女王が直接地上へ出てくるために、今度は君の愛を吸い込んだ雪絵さんが必要なの。今は環境を整えるだけで忙しいでしょうけど。また雪絵さんを狙ってくるわ、きっと」
 スィーツドール白井雪絵を得られない女王は、別の計画を実行に移した。キラーミンを使って、地上の手下である白彩に、町を変貌させる計画だった。
「キラーミンがまだ生きてる?」
 ウーが怪訝な顔をする。
「おそらくね。奴の正体は綺羅宮神太郎。幻想寺で出会ったお坊さん、私はあいつじゃないかと思うの」
「でも、百五十年前の人間なんだろ? まさか、ずっと生きていたという訳? この町で」
 時夫は想像がつかなかった。しぶとい奴……キラーミン・ガンディーノ!
「そこはまだ分からない。でも、奴の匂いがしたのよ。また幻想寺へ行けば分かるはず、きっと、あそこ。なぜか科術の匂いがしたんだけど、結界も張ってないから私でも入り込める」
 こうして話し合いの結果、やっぱり幻想寺が怪しいという事になった。町中からあま~い砂糖の匂いが立ち篭めている。この中から、ありすはキラーミンの匂いを嗅ぎ分けるのだろうか。
 綿菓子の雲のいくつかは電線の下、路上スレスレまで降りて来た。途中、住宅街の畑にある巨大野菜の横を通りかかった。こいつらも、いつかお菓子になってしまうのか……。恋文銀座からハコヤナギをさかのぼって住宅街の中の町寺を目指す。ハコヤナギは、キラキラと輝く飴細工に変わっていた。風が木々の枝を揺らす。精巧な飴細工は、風が吹くと脆く、崩れやすかった。

 水あめが降る幻想寺の戸が開いている。門の寝猿像は相変わらず、すっとぼけた味わいを出していた。そこから、飴とは違う甘い香りが漂っていた。前に来た時は木魚だったものが、ホカホカ湯気を漂わせている巨大な真ん丸のタイヤキになっていた。
「ここもか。もれなくお菓子化が進んでいるわね」
「タイヤキの香りの他には? 綺羅宮の匂いは感じない?」
 ありすの表情が何となく沈んでいたので、ウーが訊いた。
「……しなくなったわ。クッソゥ。もっともあの時、あいつが戸を閉めた途端、匂いが消えちゃったんだけど」
 マズルといい、綺羅宮神太郎といい、ありすの師匠といい、最近消えるのがこの町で流行っているのか。
「とにかくこの町で起こってる一連の事件の背景にはフィクサーが居るのよ。女王とは別にね」
「あたし知ってるよ」
 ウーが何か閃いたように言った。
「え? 誰」
「ジョン・ラセター」
「「それはピクサー!」」
 ありすと時夫が同時に突っ込んだ。ギャグではない。ウーの場合は天然だ。
「でも、ここ科術の匂いはプンプンする」
 ありすはドタドタと寺の内部を歩き回っていたが、三人には焼きたてのタイヤキの香り以外何も感じない。どっからどう見てもおいしそうなタイヤキだ。
「何か見つかったか?」
「和ダンスが沢山ある。鍵が掛かってる。……なんで綺羅宮消えちゃったんだろう」
「昔の忍者屋敷みたいなものなんじゃないの?」
 ウーが何気なく言った一言にありすはハッとした。
「かもね。しかも時空が混乱した忍者屋敷」
 スネークマンションホテルのときと、同じことが起こっているのかもしれない。
 綺羅宮を捕まえられないにせよ、早く何とかしないと、この町は完全にお菓子になってしまう。古城ありすは焦っていた。
「綺羅宮!」
 バシン!
「神太郎!」
 バタン!
「……どこに!」
 バン!
「……行ったのよッ?!」
 ガタン!
 そんなんで科術の掛かった忍者屋敷を突破できるものか。結局和ダンスは開かず、隠し扉や仕掛け類は巧妙な科術に守られて容易に見つけられない。ありすは早々に幻想寺の捜索を切り上げて、他の手がかりを探して町中へ戻った。悔しさが顔ににじみ出ている。ありすは、師匠たる「半町半街」の店長も探さねばならなかった。

 恋文銀座の通りへ四人が戻ると、歩道がどやどや人で溢れかえっている。どうやら、どこかの店の行列らしい。それぞれの手に、お碗や器を持っていた。行列の先を見ると、煙突のあるあの白彩本陣だった。
 四方の世界から隔絶されたこの町は、それほど人口が多くはないとはいえ、一万二千世帯、深刻な食糧難に陥っていた。お菓子だけは豊富にあるとはいえ、何もかもお菓子になってしまうのでは栄養が偏る。
「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃないのって、マリー・アントワネットは言ったけど、ソーは行くかってぇーの! ギロチンに掛けちゃうぞ」
 ウーは憤慨して言った。心配しなくても、もうとっくに、マリー・アントワネットはギロチンに掛かっている。ちなみに、件のお菓子発言をマリー・アントワネットが言ったという歴史的証拠はないよーだが。
「あ、でも甘食なら幾らでも食べられるカモ」
 と、ウーは唇に人差し指を当てながら付け加える。
「あたしも、千葉県名産ピーナッツサブレなら食えるけど。糖質・脂質・炭水化物・たんぱく質。それにビタミン・ミネラル、食物繊維。人間はこれらをバランスよく食べないと生きていけないからね」
 ありすの言うとおりだったが、その為に人々が和菓子屋に並んでいるのは何故なんだ。にしても幻想寺のフカフカの巨大タイヤキ、うまそうだったな。今度行ったら食ってやろうと時夫は思った。
「あの行列……工場で出たお菓子の切れ端を安く出しているんだと思います。訳ありお菓子です。お菓子のアウトレットです」
 元従業員の雪絵が言った。訳ありすぎだろ……。
「もし世界中甘いもんばっかりになったら、もう何が甘くて甘くないのか分からなくなる。お米だろうがカツだろうが野菜だろうがお菓子や飴になってしまったら……」
 いつか北部の冷たい料理や、西部の辛味が懐かしく感じるときが来るかもしれない。何事も極端はいけないのだ。
「そんな時は、飴に一滴醤油を垂らして食べる!」
 ウーが笑顔で言った。だが、その醤油も甘醤油じゃしょーがないわな。
「あれ、持ってるのひょっとしてお米じゃ?」
 ウーが白彩から出てきた人が手に持つものを凝視して言った。
「なるほど。どうやら、そうらしい。お菓子だけじゃなく、白彩だけは魔学の力で、和菓子にも使う白米をそのままの形で提供できる。これは恋文町の住人に対する配給よ! そうして住人をコントロールしている。何たる逆説!」
 ちょうど町の中央に位置する白彩の工場が恋文町唯一の食料源になっていた。町をお菓子に変えている張本人が、米を供給している。トンでもない話だ。マッチポンプじゃないか。だからもう何人も白彩に抵抗しない。こうやって地下の連中は町人を懐柔する作戦だろう。
「今度は、あたし達が兵糧攻めに遭う番かも」
 ありすの傘を持った拳が震えていた。天地がひっくり返っても白彩からお米を貰う訳にはいかない。
「皆さん、私はスィーツドールです。私はこの飴、ヘイキです!」
 雪絵はそういうなり、科術の傘をパッと畳んだ。
 飴を浴びてテカテカしているが、雪絵は雪絵だ。飴になるでもなく、いやすでに命を宿した砂糖細工なのだから、これ以上飴に変化しようがない。というより、何やら元気そうだった。
「ありの~~~ままに~~~」
 雪絵はふらふらとどこかへ歩いていく。
「ありの~~~ままに~~~、生きていくんだ友達な~んダァアア~~」
 雪絵がダンスしながら笑っている。
「うふふふふ……」
「彼女、わた飴でよっぱらったね」
 飴の中、踊る雪絵を見てありすが微笑んでいる。

 かわいい、かわいいよ雪絵……。僕の、僕だけの、大事な大事な雪絵。

 時夫はめまいにも似た感覚を覚えていた。そんな事はないよ雪絵。君はもう人間だ。これまで二人の愛、絆は一層進んで、雪絵の人間化も進んだ。時夫は、雪絵を会えないみさえの代わりとして愛していた。

 町内放送が正午の鐘を鳴らす。
「あぁ……もうお昼か? あたし達も何か食べましょうよ」
「食べるって、一体何を」
 時夫はウーに訊いた。甘いもんなんかあまり食いたくない。そうだ「千代子とレート」のドイツパンとも思ったが、あそこも客が殺到しているはずだ。
「もう、たこ焼きでもいいから食いたい」
「たこ焼きでもって何よ」
「菊の花とか食べれるんだよ」
「ほほぅ」
「ウチに来れば、科術の力でまともな料理食べられるよ」
 ウーが言った。
「バイトリーダーのくせに」
 ありすがつっこむ。
「オマエモナー」
 ウーの提案に従って、四人は薔薇喫茶に移動し、サザエさんのエンディングよろしく一列で店に吸い込まれていった。
 ところがだ。出てきたのは「イチゴちらし」。うさぎの手作りメニューだというのだが……。
「酢飯を切って切って混ぜながら、で、こいつをオン・ザ・ライスというね。今、お店にこれっきゃないのよ。我慢して」
 薔薇喫茶は食材が切れてしまったようだった。いちご好きなのか買いだめしてある。それで結局イチゴのちらし寿司だ! しかも、それを昔ながらのいちご用先割れスプーンで潰しながら食べるのだという。これまでウーは薔薇喫茶から食材を持ち出しては、恋文ビルヂングの中で色々と振舞った。でもお店で食材の仕入れをしていなかったため、早々に枯渇してしまったのである。無論「半町半街」と恋文ビルヂングにはまだまだ沢山食材があるが、準備にさらに時間が掛かるのがめんどくさいという方向にみんなの意見が傾いている。
「いやしかし……」
 時夫は抵抗した。
『アホドール……でっかいウツボカヅラに地下で食われりゃいいのに』
 ありすは凝視しながらブツブツ言っている。
「アレ? うまい」
 ありすが一口食べて意外という顔をしている。仕方なく他のメンバーも口にしていった。まぁ……食べられなくは……ないか?! 謎の中毒性があるよな。空腹は最高の調味料だ。ひな祭りには持って来いかもな。
「どーせならフルーツポンチが食いたい……」
 ありすの言うとおり、フルーツの持つ自然な甘味は許せる。
 いわゆる「いちごスプーン」という道具について、ありすは解説し始めた。昔のいちごは酸っぱくて、砂糖とミルクを足して潰して食べていたらしい。その後、いちごは品種改良が進んで普通にそのままフォークで食べることが多くなったのだという。話が今は珍しくなったアルマイトの弁当箱に及んだとき、デザートに沖縄のジーマーミ豆腐が出た。黒蜜が掛かっている。なんだ、そんなのがあるなら先にそっちを出せばいいじゃん。と、いっても量的な問題もあるのだろう。
 食後、ありすは薔薇喫茶でそのまま読書を再開した。すると、珍しく薔薇喫茶にお客が入ってきた。その後も続々と増えていく。食糧難になった恋文町で場末なこのお店にも食料難民が殺到するようになったのだ。しかし食べ物はイチゴちらしか、それに類するもの。それでも文句を言う人は居ない。ウーはいきなり多忙になった。
 日が暮れ、テレビを着けると今夜は「金銀歌合戦」が始まっていた。

 飴が止み、雲間から黄色い月が顔を出す。今度は月から甘い玉子の焼けた香りが漂って来る。月が黄色く丸く巨大になり、黄色いパンケーキになった。それにしても、でかい。魔学のカレンダーで、一ヵ月が31日ではなく、32日。33日と、カウントが増えていく。それに従って、今後満月がどんどん巨大化していっているらしい。
「こんな月は認められない!」
 ありすは思い立ったように外へ出ると、「本物」の月を求めて月丁目へと向かってひたすら走った。月丁目のやたらデカい満月が、本物の月なのかは大いに疑問だったが、雪絵の事はウーに任せて、心配した時夫も後を着いていく。果たしてそこは名称が「月月町」に変わっていた。結局、ここから見える満月も全く同じパンケーキだ。空に浮かんだパンケーキ。どこまで行ってもパンケーキ! 甘い香りが追いかけてきやがる。それ以外の月を見やると、三日月が浮かんでいた。いいや、三日月に見えたものは夜空に浮かぶクロワッサンだった。バターのいい香りが漂ってきた。

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