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法の家.0


 ちゃんとした衣類など持っていなくて……。
 いつ身につけたのかも覚えていない大きめのシャツは、(ほこり)にまみれ、すそのあたりがすり切れていた。

 人気(ひとけ)のない夜の森。
 冷たい草地に転がって、うとうとしていた少年をびくつかせたのは、なにか生きものが近づいてくる気配。

 穀物(こくもつ)がこってりと()こまれた、おいしそうな香りもいっしょに(ただよ)ってきたので、空腹を抱えていた彼は、むくりと身体(からだ)をおこした。

 そこに現れたのは、ほどなく十を数えようとしている彼より頭ひとつ半あまりも上背(うわぜい)のある男子。

 成人にはまだ遠い中途半端な体つきのその子は、暗がりの中、いささかの迷いも見せることなく彼のもとに歩みよると、湯気がたちのぼる(うつわ)これ(・・)というように差しのべた。

 心もとなげに手を伸ばした彼が、おずおずと器を受けとる。
 するとその人物は自身が身につけていた外套(がいとう)を肩からはずして、ふぁさっと――その布地で彼の身を包みこんだ。

 早秋(そうしゅう)の夜の冷気にさらされて(こご)えていた未成熟(小さ)な身体が、ぬくもりをうけとめる。

「大丈夫。悪いものは入ってない」

 知らなかったのに、ほんとは知っているような……。
 いつかどこかで見かけたことがあるような気もする人物(ひと)

 そう。
 覚えていた。

 それは彼を助けてくれた少年だ。

 炎がせまりくる熱気の中、彼を拘束(こうそく)していた(くさり)を外し、連れ出してくれた人だ。

 目が()めた時には森にいて、ひとりになっていたけれど……。
 きっと、こわい人ではない。

 彼より背が高くて、おとなに見えるから、二つ三つ年上……いや、とても しっかりしてい(頼りになり)そうだから、もっと上なのかもしれなかった。

 あたたかいスープと闇人(やみひと)がもっていそうな、内側がふわふわな外套(がいとう)……。

 このあたりの人間にとって衣類や食物は命をささえる貴重な富・価値ある物資だ。

 助けてくれたし、食べ物をくれた。
 ほわほわの外套(上着)で彼を包み、保護して、(あたた)かくしてもくれた。

 いま自分の目の前に片膝(かたひざ)をついてしゃがんだ――そのお兄さんは味方だと。そう判断した彼の警戒心は消えぬまでも、かなりまで(ゆる)んだ。

 おなかが()いていたので、ためらいなどおぼえるべくもなく器に口をつけて、もぐもぐと。
 夢中になって、火傷(やけど)しない程度には温かい(かて)(のど)の奥に流しこむ。
 そして、がぶりと。自分の口より大きな()――白い(カブ)のかたまりに歯をたてた。

「西の(ほう)に…」

 闇の中。届いた声に顔をあげると、目をだす状態で顔の下半分ほどを布地でおおっている相手の白い横顔があった。

 その視線はあらぬ前方に向けられていて、彼を映してはいない。

「力だけじゃなく、法がものをいう土地がある」

「ほうがものいう?」

「一部の人間と闇人が協定を結び——十全(じゅうぜん)ではないが共存するための調和が……それなりの平穏が維持されている」

 目をまんまるにした彼が、よくわからないような顔をしていると、その少年は少しばかり思案するようなしぐさをみせた。
 ちらと彼の方を見て、言葉を補足(ほそく)する。

「人と闇人が土地を分けあって暮らしている」

「……わけて、いっしょに?」

「トラブルがまったくないわけではないが、闇人が無闇に人を威圧……支配…。(いじ)めたりしないし、理由もなく一方的に追いたてて歩くこともない。極端に狂いはみだす者は(さば)かれる」

「ほんとうか?」

「西に行ってみないか?」

「それ。おれが行こうとしてたのと(ぎゃく)(なんだ。でも……)。だけど、そこに……。おれの居場所、あるかな?」

「…――気をつけなければならないことが、幾つかある…」

 闇人(やみひと)遠戚(えんせき)のように云われる魔人や妖魔、魔獣など。
 妖威(ようい)と呼ばれる存在(もの)が、気のままにふるまい(ひそ)み、力あるものが優位に立つところでは、人間が集落をつくりながら物陰に隠れる小動物のようにおびえて暮らしている。

 ここは、そういう(ゆう)土地だった。

 脅威(きょうい)ととなり合わせで生きる人の心は、ゆとりを(うしな)い、(すさ)み、萎縮(いしゅく)する。

 ちょっとした異常にも過敏な防衛反応をみせるようになる。

 彼は、そんな人間の里からはじかれた子供だった。

 いまは頭も眉も、つるつるにそっていて、そんなに目立たない――けれども純粋な人間にはありえない色彩を持っていたので……。

 父を亡くし母に捨てられた彼は、ほかに頼れるものもなく野をさまようしかなかった。

「西には(きみ)の居場所があると思う。あるいは東にも受け皿はあるだろう。だが、それではこれまでと変わらな(・・・・・・・・・)――…」

「それって、どっち? なぁ、ここからは、どっち? おれ、(夜だし、いま自分が)どこにいるのかわからないんだ。どうやったらそこに行ける?」

 興奮した彼に発言を(さえぎ)られた覆面(ふくめん)の少年は、投げられた疑問には答えず、少しのあいだ沈黙した。

「セレグ。《法の家》に行かないか?」

「ほうの家?」

「うん。壁が淡い紅色……朱鷺(とき)の羽根のような色をした組織。家並(やな)みだ」

「……。おまえは、そこに行くのか?」

「う……ん? ぼくは……」

 覆面の少年は彼を映していた瞳を、すっと水平にそらした。

 (かす)かに微笑んでいても表面だけで、さほど楽しそうでもない陰のある表情。
 その裏を感じさせるしぐさにどんな意味があったのか…――あたりは暗い闇に沈んでいて……。(おさな)くて自分のことだけで手一杯の彼は、相手が笑ったことにすら気づかなかった。

「おれ、人間(ヒト)と闇人の町に行くよ。そこって、とおいのか? どうやったら行ける?」

「町というわけじゃ…――いや、みたいなものか」

 覆面の少年は語尾を独白(どくはく)のつぶやきに変えて、否定する言葉をひっこめた。

「おおまかには太陽が沈む方角を目指せば、どうにかなる」

「太陽がおちるほうか。じゃぁやっぱ、朝にならないと(わからないな)……。そっちって道あるの? (森は獣もあやかしも出る。でこぼこで、ぼうぼうで……迷いそうだ。食べ物もない……)。おれ、行けるかなぁ…?」

「セレグ。《法の家》も西にあるんだ」

「それって、町とか人の里とちがうの? だれかの家? ……とおい(の)?」

「規模はそれなりだから集落ともいえるかもしれない。君が知ってる人里より、はるかに大きい。広いが……。親がいない子供も受けいれ、住ませてくれる。生きる(すべ)を身につける土壌……場所としては悪くない」

「おまえも、ひとりなのか?」

「ぁあ、…うん。そうだな……」

「……。いっしょに行くか?」

 相手に対する気後れ、ためらいもあったが、そこに芽生えた期待を秘めきれずに誘ってみる。
 すると、少しのあいだ、まっすぐなまなざしを注がれたので、彼も見つめかえした。

 先に視線を外したのは、布を顔に巻いている少年の方だった。

「いや。止めておくよ」

「つまんねぇの…」

「君を見失わないくらい…――そばには、いるから。じゃぁ、また…。……」

 あわただしく立ちあがった少年の大腿(だいたい)の横のあたりに、大きめの急須(きゅうす)か、小さな薬缶(ヤカン)のようなごろっとしたものがぶら下がっていて揺れた。

 月の光が通りぬける小さな穴がたくさんあったから、空洞(くうどう)になっていて全体に装飾的な細かいすき間があるのだ。

 身につける種類の装飾品としては大きすぎて、邪魔になりそうな金属……または陶器のようでもある腹太の楕円形。
 穴だらけなので液体を入れておくものではないのだろう。(そそ)ぎ口のようなものもなかった。

 その(ふた)つきのお(わん)のような形態をした物体の中に、なにか、まるっこくて光を透過するものが入っているようにも見えた。

 目につく細工を腰の横につるした少年は、もうふり返ることもなく行ってしまったので……、
 彼はまた、ひとりになった。

 いちど足を立ててから、もとのように座り直した彼は、たった一人の味方がのこしていった外套をぎゅっと身体にまきつけた。

「…きっと、父さんがいるんだな……。…」

 ぽつりと思ったことが言葉になった。

 頼れるのは父親で、母親は何をするかわからない――そんな固定観念が、いまの彼にはあった。

 自分は髪の色が変だし、変わった色相(しきそう)の目をしている…――味方になってくれるその少年の父親も、息子が自分と話すのはゆるさないかもしれないとも。

 それでも、あの少年は『また』と言った。

 『そばにいる』と。

 だから、あの少年なら信じていい――そんなふうに思えた。

(西のほうにも町があるのか……。東のほうにあるのと、あの里だけだと思ってた。知らなかった。人と闇人がなかよくできるのは、すごくいいな…。……)

 幸福な気分であれこれ思案していた彼は、(から)になった器を片手に抱えたまま、もぞもぞと身体をまるめ、つかのまの眠りにおちた。

 それは彼が(とお)を数えようかという頃のこと。

 少年()は、静まりかえった闇のなかに平穏をみていた。

 彼が育った土地では、死がひどく身近にあって……。暗闇のなかで、ひとりになることよりも恐いこと、危険と思うようなことがいくつも存在した。

 なにがひそむかも知れない闇だが、その奥深(おくぶか)(ふところ)は、彼を()むことなく害敵の目から(かくま)ってくれる。

 彼を襲うものを隠していないかぎり、それは、なによりも心強い味方だったのだ。

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