226 その人
「なぜ……」
ルナは、問わずにはいられなかった。
だが、それ以上なにかを言うことも、彼女にはできなかった。
「……」
扉を開けたその人は、初めて見たときと同じ、黒いシルク生地の下着に、藍色と白色の肩かけを羽織り、同じ生地の腰巻きを巻いていた。
無言で、ただ、笑みをルナに返している。
2人、見つめ合う。
紙に文字を書くための、筆につける墨汁よりも黒い髪の毛。男子らしい、ほどよい短さで、毛の先には少しだけクセがあった。
その髪の毛と同じくらいに、漆黒の大きな瞳をした目は、優しさの中に、密かな憂いが滲んでいるような、切ない輝きを放つ。
……その目で、なにを見てきたの?
聞けなかった、問い。
「……」
同時に、あの時の記憶がよみがえってくる。
立ち寄ったサライで、ウテナがお風呂を覗かれたと、怒っているのを止めに入ったときに、初めて出会った。
その人は、水を自在に操る、マナを取り込んだ能力者だった。
マナを取り込めなかった自分に、西のサライで、優しく言ってくれた。
《分からなくても、能力者にはなれるみたいですけど》
次々と、あのときの記憶が、涙とともに、沸いて、溢れる。
アクス王国で一所懸命に売り込んでいる姿も。料亭で泣いてる姿も。なぜか火傷を負って、精魂尽きて朝帰りしてきたときの姿も。一緒に食事をしたとき、ずっとなにか考え込んでいた姿も。帰還のときに遭遇したジンと、必死で戦うあの姿も、何もかもが。
《ホント、今のこの時間が、ずっと、続けばいいのになぁって、思っちゃいますよね》
だけど、別れは言えなかった。メロ共和国に早々に帰還し、事の詳細を国に知らせなければならず、未明には西のサライを発つことになったから。
そんな状況で、未明に起きて帰還準備のために外に出ると、その人が、回廊と中庭の出入り口付近で倒れていた。
もしかしたら、ウテナの言っていたことを実行しようとしていたのかもと思い、ウテナと2人で持ち上げ、密かに部屋に入り、寝台へと寝かせた。
その時の寝顔が、その人との、最後の思い出。
そこで……。
「ルナさん、久しぶりだね」
その人が、言った。あのときと同じ、緩やかな響き。何もかもを許してくれそうな、優しい声。
その声を聞いただけで、心は揺れた。
「迎えにきたよ……」
ゆっくりと、近づいてくる。
その漆黒の瞳から、離れられない。吸い込まれそうになる。
「さあ、僕と一緒に……」
その人が、手を差し出す。
「……違う」
ルナは、小さく、首を横に振った。
「あなたは、マナトさんじゃ、ない……」
差し出した手が、ピクッと止まった。
「……」
少し悲しい表情をしながら、それでもマナトはやはり笑顔で、差し出した手を戻した。
その時、
――サァ~。
マナトの顔の、こめかみあたりが、塵となって、消え始め……。