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ここではないどこかへ

走る。逃げる。走る。雪のように白いさらさらのボブヘアに、アイボリーの色をした襟付きのシャツと茶色のベストを着た半ズボンの少年は、ただひたすら走り続けた。
硬い石畳を蹴っていた感触はいつの間にか消えて、柔らかい土と石が、並ぶ木々が、緩やかな上り坂が行く手をふさぐ。
しかしすべて革靴の靴裏で蹴り捨てる。
煙っぽいにおいは遠ざかり、松脂や土と水っぽい香りが少年を包むようになる。次第に樹木の数が増え、空気はほんのり湿っぽさを帯びながら、明るい日光を受けて揺れている。
地面はふわふわした土と、伸び盛る草と、曲がりくねった木の根で出来始めた。
父親の背丈の何倍もの長さのある丸太の橋を渡り、ちょろちょろと流れる小さな小川を、巨大な岩を越える。
山というのは怖い場所なのだ、と親にずっと言い聞かされてきた。確かに今でも帰り道がわからなくなるのではないかという恐ろしさが頭の片隅にある。しかし、だからこそ少年は選んでしまいたかったし、ひとりで触れる森の中は、格別の心地がした。

『どうしてこんな点数を取ったんだ』

今さっき言われたばかりの親の言葉がリフレインする。そんなこと言われたって、取りたくて取ったわけじゃないのだ。

『お前は将来立派な学校を出て、立派な経営者になるんだぞ』

知らない。知らない。今のことだって精いっぱいなのに、未来の事なんて考えられるはずもなかった。だから少年は言い返すこともなく、ただただその場所から走って逃げだしたのだった。
目的地なんて決めていない。ただ、親のいないところへ行きたい。できれば、ずっと。
そうして走って、歩いて、歩き続けて、木の背丈が随分と伸び切ったころ、少年は変わった石が落ちていることに気が付いた。草が伸び、纏わりつくそれは、よく見るとただの石ではなく、いくつかの塊が重ねられて出来ており、途中で砕けた跡がある。壁の足元のようにも見えた。
さらに奥に進むと、今度ははっきりと石造りの建物が目に入った。屋根も壁も、あちこちが壊れて穴が開いている。長い時間ここに存在し続けていることは、幼い少年にもわかる。
真っ黒に汚れた扉は、おそらく木製だろう。蝶番が壊れているのか、小さく揺れていた。
少年は息を呑んだ。まさかこんな場所に、ひとの住むような建物があるなんて。見たことのない初めての建物に、心が浮足立つのがわかる。もしかしたら、隠れ家にできるかもしれない。
揺らぐ扉に導かれるようにして、小さな手でそっと開けた。
古びた木の扉は軋む音を立て、彼の心臓の鼓動を速めた。内部は陰鬱な闇に包まれ、時間が止まったような静寂が支配していた。足音が、空虚な室内に響き渡る。
しかし中に家具はほとんどなく、ただただ不思議な紋様が壁一面に刻まれているばかり。
その溝を覆う埃を見つめながら、この場所の歴史を想像する。そこはまるで、異世界の門をくぐったかのよう。遺跡にも見えた。
奥の隣の部屋は、壁で仕切られてはいるものの、天井も扉も全くなく、雨風に晒されて、中で植物たちがのびのびと育っている。
少年が足を踏み入れた、その時だった。
壊れた部屋の片隅に、サッカーボールよりも小さな、黒い影がある。毛むくじゃらのような、しかし黒い靄のような、見たこともないその身体。
突然『それ』が大きくなって、黒い霧のようなものを纏いながら体の毛をうねうねと触手のように伸ばす。少年の視界が漆黒に落ちる。

ぐわん。きぃん。

突如頭に激痛が走り、周囲の空間が歪む。足元が崩れ、まるでどこまでも落ちてゆくような感覚。止まらなくてはいけないと思うものの、指一つも動かない。

――だれだだれだだれだだれだだれだだれだだれだだれだ――

無数の人間のささやき声が頭の中でこだまする。まるで中を直接誰かに覗かれて、喋りかけられているようだ。黒い大きな波が両手を繋ぎ、大きさを変えながらぐるぐると少年の周りを廻り続けている。
大量の虫が住み着いて、永遠の時の中、羽を震わし続けているような、激しすぎるざわめきの感覚。頭が回るまわるまわるまわる。
彼は、何が起きているのかわからない恐怖と混乱の中で立ち尽す。存在しているはずの境界線が切り開かれて、どこかへ遠くへ接続している。
伸びて、蕩けて、ぐちゃぐちゃになっていく。世界と自分が一つに混ぜ合わさる感覚。それは本質で、偽物で。遠ざかって。
ああ、ここが来たかった場所なんだ! いや、そんなはずはない。
恐ろしいはずなのに、なぜだか心地の良い気持ちさえふつふつと感じ始めていた。
ぼくは僕はボくハどこへ。どこから。どこに。あさって。どうして。なにが。なにも。今日はおやすみ。
このままではなにも変わらない変えられないぼくがボクでなくなって何処までもどこまでもドコマデモ。

――おまえはだれだ。おまえは私の子供だ。

ひときわ大きな影が、少年の顔を覗き込む。巨大な両腕が少年に伸びる。包む。飲み込んでゆく。

――私の子供は、私と同じにならねばならない。

「いやだ!」

ぱちん。何かがはじけるような音がして、少年は、きらきらと日光の落ちる、森の中の廃墟の中へと戻った。自分の激しい動機と、呼吸の音ばかりが支配している。
そして、今度こそ『それ』と目が合った。
いや、本当に目であるのかも、少年にはわからなかった。ただ、直観でそう思っただけだった。
闇黒の球体の真ん中で、縦長で丸い、ふたつの真っ白な光がじっと『見つめている』。

「ひっ……今のは……きみが……!?」

少年は思わず逃げようとして尻もちをついた。土の湿り気がうっすらとズボンを濡らしたのを感じた。しばらく少年は、『それ』を観察していた。
漆黒の身体に白い光がふたつ。だがよく見ると霧のようなものに包まれていて、うっすらと光を放っているようにも見える。まるで星雲のような光は怪しくて、どこか美しいようにも見える。
しかしなぜか表情のないその顔が、どこか悲し気にも映る。体を起こし、少しだけ近づいた。

「……あ、あの……? ううっ」

『それ』はきん、という音を立てながら後ずさる。その音を聞くと、再び先ほどに似た頭痛がする。目の前が黒くなって小さくうめき声をあげた。
だがそれは、一瞬のうちに消えた。
はっとした少年がもう一度『それ』をよく見ると、漆黒の体の表面からぼこぼこと紫色の煙のようなものが上り、そのたびに身体を震わせていた。

「ひょっとして……けがをしているの?」

一瞬、その光が強まったように見えた。近づけば、また同じ目に合わせられるかもしれない。子供の身体が小刻みに震えているのがわかる。けれどそれが、もし痛みのせいならば、危害を加えないことがわかれば、もっと距離を縮めることが出来るかもしれない。
あわよくば、この場所を『逃げ場』として借りることが出来るかもしれない。
それは今の少年にとって、とても甘美な魅力を持っていた。

「いまはこれしかないけど……」

ズボンのポケットから、携帯用のバンドエイドを取り出した。裏のビニールを外し、そっと『それ』の傷口とみられる場所に近づける。
『それ』はやはり少年から距離を取ろうとするが、そのスピードはずっと遅い。少年の白い指先が、黒い身体に触れた。綿にも似たふわふわした感触の間から、冷たい水蒸気が昇るような感触がある。
そしてようやくバンドエイドを貼り付けた。これできっと少しはよくなるだろう。少年は安堵する。

「ビ!」
「あいたっ」

またズキっと頭痛がした。どうやらバンドエイドの感触が痛いとか、あるいは不快であって、それが同じく伝わってきているのだということは少年にも理解することが出来た。

「ご、ごめん……! ううん、貼らないほうがいいのかな……」

しかし『それ』は、それ以上何も言わずにその場でじっと佇み、ただ彼を見つめている。呼応するかのように、白い瞳を光らせた。

「と、とりあえず……その……またね!」

少年は立ち上がり、ばたばたと廃屋を後にする。ただ、さっき『それ』から与えられたと思われる、激しい頭の痛みを思い出した。
同じ目にあったら困る。だがしかし、何が何だかわからない。
今、自分が思う感情を握りしめることすらできない。
ただ未知なる不思議な遭遇に、感情が激しく高鳴っている。この場を後にしたい気持ちは確かだ。
でも、それは来た当初の物とは違っていた。
一面を覆う草を靴で踏みしめて、それから再び振り返る。
壊れた扉の隙間から、一瞬、漆黒の影と白い光が覗いているように見えた。

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