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タービンブレーダー

●第1話
●第I話
エピローグ -THE HUNTER- 私は自分の無知に驚いたが、同時に安堵の溜息をつく
「やっぱり、あなたってすごいわよね。

あたしなんかじゃ到底真似できない。

そんなふうに思い詰めることもできないもん」
感心しきりという感じで由香里さんが言うけど、別に俺が特別なわけじゃない。

普通の人だってそうなんじゃないかな。

きっと。

たぶん。

うん……たぶんだけど 俺は少しばかり自惚れていたが、褒められたのが照れくさくて思わず否定した。

でも、「俺なんてまだまだですよ」というセリフも付け加えたいと思ったりして。

だけど結局口ごもりながら曖昧な言葉を口にするのが精一杯であった そんな私の様子を楽しげに見守りつつ、彼女は話題を変えるべく別の質問をしてきた
「あのね…… もしよければ、もう一度あなたのお話を聞かせてもらえないかしら? できれば最初から最後まで。

いいでしょう?」
それは魅力的な申し出だったが、私の方も疑問が残る なぜ私が彼女の事を知っているかと言うとだな まず最初に彼女が言った「初めまして」は「あなたの名前は聞いたことがある。


お会いできて嬉しい」という台詞の後に続くものだし 何より初対面の挨拶としてはおかしいのだよな、この言い方は だからといって「あなたの名前を知りません」とも言えんわけでして 困ってしまった俺は とりあえず名刺を渡したのだが…… あれは本当に俺が書いたのかと聞かれる始末だし 実は夢の中で見た出来事だったのですがとか言い出す訳にもいかなくて どうすれば良いのか考え込んだ挙げ句に
「あなたはとても美人なので、見覚えがあったのかもしれません。

それで記憶違いを起こしたようです」
という苦しい誤魔化しの言葉を吐くことになったわけだ ところが だ、そこで終わりにしなかった女がいた。

それが由香里さんだよ。

「あなたって面白いわぁ」と言い出して それ以来「今日は何の話をして下さるのかな?」と言っては毎夜訪ねてくるようになり 気がつけば俺が話して彼女が聞いている、という状態になっていたのだった 俺が話して彼女達が聞き、彼女達がそれぞれ語る。

俺と彼女らが出会った時とは正反対だな……そう言えば不思議な事に彼女たちはお互いに面識が無いはずなのに お互いの事は良く知っているようだ。

まるで姉妹みたいな関係に見えるときがある。

もしかしたら実際に血縁なのかも知れん。

それならば俺の知らない過去や秘密を共有していても納得できるし。

ただ だ、そんな事を言っておきながらも 俺自身にはまったく覚えがない。

まったくの別人であるような気すらしているくらいだ。

だがしかし、他人という事はないのだろうし、何か共通点でもあるのかと考え込んでしまうのが現状だ うーむ
「えっと…… じゃあ、今度は由香里さんの話をしてください。

お願いします」
こうなったら やけくそだ 俺だけ知られているなんて不公平ではないか! だから由香里さんからも聞き出そうと考えたんだ。

それに彼女は話し好きで自分の体験を話すのも大好きらしい
「そうねえ 何からお話すべきか迷ってしまうけど……」と前置きした上で話し始める内容は凄まじいもので、思わず聞き入ってしまいそうな勢いではあった。


「あらごめんなさい、話が逸れちゃったみたい」と言ったきり再び俺の過去の話に突入
「ところであなたって子供の頃から本を読むのが好きだっておっしゃっていたでしょう? どんな物語を読んできたのかしら? 参考までに教えて欲しいんだけど」
しまった そう来たか。

俺の読書遍歴から趣味がバレてしまうかもしれないが仕方ない。

これは逃げられない話題だ。

とはいえ俺の人生がそれほど面白い話でもない。

小学生の頃に読んだ本なら憶えてはいる。

確か『シャーロックホームズの冒険』だったと思うが、子供向けの読み物として書かれていたせいで事件の解決に至らない結末にモヤモヤしたものを覚えた。

あれは名作だったが同時に子供だましさを痛感させられてもいる
「うーん、小学生向けという事でしたらやはりシャーロックホームでしょうか。

もっとも私が読んでいた頃は児童向けに書き換えられていたようですけどね。

あのシリーズは今でも色々と読まれているようですね」
そう言う由香里さんに軽く説明する シャーロックホームズと言えば「シャーロック・ホームズと黒真珠」や「バスカヴィル家の犬」「緋色の研究」などが有名だよね、と言うのだが、何故か「まだ読んでないわ」との返事が来た
「今度貸すよ」と言ったところ嬉しそうにはしゃいでいたから良かったのだけど しかし彼女の場合どうなんだろうか。

俺はこの年で推理小説マニアを自称していた






りするが、女性でも同じ傾向が見られるものなのかどうか?
(さあどうですか)
などと自分でも解らんので彼女に尋ねてみると「そうねぇ……」と一言置いてから「あたしの好みからいくとねぇ……」と言い出した。

そこから先はマシンガンのように早かった。

まるで機関銃を撃ちまくるかの如くに、しかも途切れる事無く喋っているから さすがの俺でも追いつかなくなる。

さりとて止めることも出来ず、彼女の口の動きがピタリと止まった時にようやく「もう止めろ」という意思表示が出来たほどだったよ。

で、結局はこうなる 私は自分が好きだと思う本を彼女に紹介していく羽目に陥った。

まあいいんだけどね。

こうして夜は更けていったのだった…… 次の朝目が覚めた時はもうお昼を過ぎていて
「うひょお!」とか叫びながら慌てて起き上がったものだ。

由香里さんは「ふぅっ」とため息混じりで笑っているだけだったな うむ
「お邪魔しました」
「お休みなさ~い」という声を聞きながら俺は玄関のドアを閉じる。


●第2話
また一人になったな 俺が部屋でごろっと横になると 昨夜の事が頭に浮かぶ あの人って…… 一体誰なんだ? 俺は何故会った事も話した事もないはずの女性のことを知っているのだろうか。

しかも妙に詳しいのが気持ち悪いというか。
●第II話

俺にそんな知識は無いはずなのに、どういう事だ? もしかして誰かが意図的に情報を流したか? それとも夢の中に出てきたのかも知れないな。

だとすれば なぜ俺の夢の中に出てくるんだろう? 俺が何かを望んでいるのかね。

それじゃ夢を見続けるために頑張らねばならんのかいな だが俺はそんなつもりは無かった。

だってな、俺は自分が死にたいなんて思った事は一度も無いからだ夢の中でさえだ。

そんな俺が自殺なんてするか。

する理由が無いじゃないか 俺はベッドの上で寝返りを打つ その拍子に枕元に置いてある時計が視界に入った 午前2時48分。

真夜中も良いところだ こんな時間まで何をやってたんだろうと自分に呆れつつ、眠ろうと目を閉じても全く寝付かれる気配が無かったのだった……結局、俺はその夜一睡も出来ないまま過ごしたよ
「おはようございます。

お疲れ様です」
翌朝、由香里さんを駅まで送りに行こうとすると「いいえ結構よ」と言われてしまった どうしてと尋ねると「もう駅に着いたもの」とのこと。

何だそりゃ。

まあいいや。

とりあえず俺はそのまま家を出た。

今日は土曜日で仕事はお休みだし、特に用事があったわけじゃないけど 駅前通りに出る途中で立ち止まって辺りを眺めてみた。

いつも見ている風景なのに「何だろう?」と思った瞬間 ああ……そうか。

あの人がここに立っているのを見たのはこの一度だけで、それもほんの一カ月足らずの出来事だから何とも思わなかったのか……と納得し、思わず溜息が出そうになったその時だった。

いきなり背中をドンと叩かれたんだ。

驚いて振り返ると由香里さんだった。

俺はびっくりしたあまり「わわっ」と変な声で叫んだのさ。

すると彼女は楽しそうに笑う。

「ごきげんよう」なんて挨拶されちまった。

「おはよう。

随分早いね。

どこか行くの?」
俺が尋ねたら、彼女は首を振って
「これからあなたに会いに行くのよ」と答えた 俺の家は彼女より先にあるから 彼女は俺の部屋の前で足を止めると、「ごめんください。

居られますかしら?」と聞くのだ。

だから当然居ると答えれば彼女は笑顔を浮かべつつ「開けてくださいな」と言う。

そして……
「はい?」俺の目の前にあったものは銀色の円盤だ。

それは彼女の手に握られている。

「お待ちしてました」と言って手渡してきた彼女の言葉は「それね。

あなたがお好きだって言うから買ってきたのよ。

差し上げましょう」
それは「シャーロックホームズの推理」というシリーズ物の小説本だった。

俺はそれを何度も読んだ事があるのを思い出した。

だが俺は「いや、それは貰えない」と言ったのさ。

そうしたら……
「いいえ、遠慮は要らないわ。

受け取って頂戴。

それはあなたのために購入したの。

気にしないで」彼女はそう言って微笑みかけると「それじゃあね、ご機嫌よう」と手をひらつかせ、くるっと後ろを向いて行ってしまった。

後には彼女が残した香りが残るのみだ そう言えば以前 何かの本に書かれていたのを読んだ事があった。

「良い匂いをさせている女性は美人だ」ってな。

だからといってどうというわけじゃあないけどさ。

ただ何だろうね。

不思議だな、と思う。

彼女の姿が見えなくなってから、ずっと考えているんだけど 俺って 今まで美人だと言われる女性にろくに出会った事も無いのに 由香里さんだけは例外みたいだなぁ そんな感じがするのは何故なんだろうか……俺って自惚れているのかな。

自分で自分が解らなくなってきた。

それに美人だと思っているならもっと近づきたいとか仲良くなりたいと考えて行動を起こすだろう? それがないのは何でだろうね?……考えても解らないままだ そう言えば、俺にシャーロックホームズの本を勧めてきたのも彼女だ。

「この本を読んでいると事件に巻き込まれた時に役に立つかも」とか言っていた気がする 俺はもう一度彼女の姿を探そうと周囲に視線をめぐらせる。

だがその姿は見当たらなくて。

仕方なく俺は家に戻ろうとする。

すると俺の部屋の中から話し声らしきものが聞こえてくる。

え?と思いながらドアに歩み寄ろうとしたとき
「お待たせ」の声とともに女性が顔を出したものだ。

それは紛れもなく由香里さんだった。

俺の顔を見るや彼女は「お久しぶりねぇ、元気そうで何よりだわ」と言う。

だから俺も「由香里さんこそ。

お変わりないようで良かった」なんて言って笑い合ったんだ
「どうぞお入りになって」そう言われ部屋に上がる。

テーブルの上にお茶の入ったグラスが置かれると
「あなたに聞きたい事があったのよ」彼女は唐突にそう切り出した聞きたい事って何だい、と尋ねると
「ええとね 昨夜、夢を見たんだけど あなたの昔の事について少し教えてもらったような気がするのよ。

だから聞きたくて……」と言う。

それで思い出す。

そういえば昨夜 彼女と話していて昔、子供の頃の事を喋ったんだなと でもあれはただの夢で 彼女の夢の内容が現実に影響を及ぼすとは思えん。

だから俺は「そんな話、どこで聞いたんですか?」などど突っ込んで聞いてみたが「あら嫌だ、あなたが教えてくれたのよ」とか言い出しやがる
「はあ、いつの事でしょうね。

俺、そんな話をした覚えはないですよ。

多分夢で見たんじゃないですか?……それより 夢の内容をもう少し詳しく聞かせてもらえませんかね。

どんな話だったか忘れちゃいましたがね」俺の言葉を聞いた彼女は「うふふ」と笑っているだけだ 俺は諦めて溜息をつくしかなかった。


●第3話
俺は由香里さんとの雑談で盛り上がっていた だが由香里さんが何を聞きたかったか、何を確かめようとしていたかなんて気にもしなかったのさ。

何故ならば、俺はそんな事に興味が湧かなかったし、彼女に質問されたとしても答えられないと思っていたからだ。

そもそも、どうして俺が子供の時の話を知りたがるのか。

それすら解らない。

しかし彼女の話を聞くうちに、段々とその理由に気づくことになるのだが……そんな事は考えなかった。
●第III話

それよりも……だ さっき夢の話が出たせいだろうか。

俺の頭には昨夜の不思議な夢が甦ってきていたのさ それは夢の中の出来事だった 俺と誰かが喋っている。

俺はベッドに横になっていたようだ。

だが誰なのかよく解らん。

どう見ても女性であるのは間違いない。

だが それだけだ 相手の声はよく聴こえなかった。

相手もまた喋らなかったので、俺達は無言のまま、暫くお互いの姿を見つめ合っていた……いや、俺はじっと見下ろされていたのか やがて相手が口を開いた。

それは優しい口調だった 私はね、今こうしてあなたと会話している自分が現実の存在であると信じきれないのよ。

これは私の意識が作り出した幻に過ぎないんじゃないかと不安に思っているの。

でも私はね、自分が夢の中の人間ではないと知っているのよ。

だから安心して欲しいわ。

だけどあなたには私が見えないんでしょう? だから私の存在は確認出来ないはずよ。

私は幽霊のようなものだと思えば良い。

あなたは 自分の意志で自由に動き回れるわけではないのよね。

それどころか肉体が存在しない……そう考えるしかない状態だもの 私はそうでもないのよ。

こうして存在しているのが証拠ね。

もっとも……実体は無いけれど、それについては仕方がないの。

そういう存在だから……ごめんなさい。

変な事を聞いてしまったわね。

もう何も言わずに黙って消えましょう。

あなたが眠っている時に現れて色々話すという事も出来るかも知れないけど、それは避けましょう。

そんなのはあなたが困るもの。

ではお休みなさい…… そう言ったきりその女性は口を閉ざしてしまうのさ そこで夢が終わって目が覚めたというわけだ。

その夢を見た後は気持ちの良い朝を迎えた そして今日一日 心穏やかに過ごす事が出来たんだよ。

何故なら夢が俺にとって心地よいものだったから。

その人の事を思い出すだけで幸せな気分になるくらいだ。

まあ……俺は別に彼女に惹かれていたりしていたわけじゃ無いんだけど、どうしてだかその人は妙に気にかかるのさ。

何故だろう? 由香里さんと別れた俺は部屋に戻った。

その前にシャワーを浴びたかったのでバスルームに入る 湯を出し始める。

熱いお湯だ 服を脱いで風呂場の鏡を覗き込んだ その時突然 激しい頭痛に襲われた 痛みに堪えきれず俺は悲鳴を上げてしまう だが痛いのは一瞬だった すぐ治まった。

俺は額に手を当てて「何なんだ?」と考えたが理由が解らない 俺は再び浴室に入り蛇口から出る水を止めた。

おや、こんなところにシャンプーがある。

何でこんなところにあるんだろう? と思ったら「由香里さんからのプレゼントだ」と気づいた
「ははあ、由香里さんが置いてくれたんだな」と思って手に取ってみて驚いた。

容器に入っているのはその一本だけではなかったのだ。

しかも 中身がほとんど空の状態になっている
「由香里さんが俺に使ってみたのかな?」と思ったけど、どうもおかしい。

由香里さんは俺に使ったものをわざわざ持ってきてくれるほど親切な人じゃあないし、第一、俺の家のどこにそれを置くというのか。

俺は首を捻ったが、結局解らずじまいだった。

そう言えば、昨日見た夢の中で彼女は「あなたが眠っている時に現れる」と言っていたが、本当なのかどうか 試してみる事にしたベッドに入って目を閉じ眠りに就こうとした。

だが上手くいかない。

眠れないのさ。

俺は何度も寝返りを打ったあげく とうとう起き出してリビングに行きテレビを点けた ニュースを見て時間を潰すつもりだったのさ。

だが、どのチャンネルに変えても大して面白い番組は無かった。

仕方なくニュース番組に切り替えて 適当に眺める事にした。

すると……
「あなた、眠ってるの?」といきなり話しかけられたものだから 驚いて「うわっ」と声を上げて飛び起きた 見ると由香里さんが立っていた
「お……おはようございます」と挨拶すると彼女は微笑みながら「お早よう。

今、目が覚めたところ?」と尋ねてきた
「ええ。

そうです」と答えると彼女は「そう」と言ってソファに腰を下ろした
「由香里さん、俺に何か用ですか?」と聞くと
「ええ、あなたにお願いがあって来たの」と言った
「俺に? 何でしょう?」
「あなたに頼みたい事があるのよ」
「俺に? 何でしょうかね」
「実はね、昨夜あなたの夢の中に出てきたのよ。

それであなたに会いに来たの。

そうしたら居ないじゃあない? それで家中を探してみたんだけど、何処にもいないのよ。

それでね、もしかするとまだ寝てるんじゃないのかなって思って 起こしに来てあげたのよ。

そしたら ちゃんと居るじゃあないの。

何だかホッとしちゃったわ。

それでね、昨夜話した事であなたが知りたい事があったから、それを聞こうとしてあなたの家までやって来たのよ。

それで……ね、もし良かったらで良いんだけど、ちょっと時間を取らせてもらえないかしら」
「ははぁ、俺に聞きたい事って言うのは何なんでしょう?」
「ええ、それがね あなたが子供の頃の話を聞きたくて……」
「子供の頃の? 俺の子供の頃の話がどうかしたんですか? 由香里さんは俺が子供の頃に会ったんですか?」
「ええ、そうよ」
「俺の子供の頃に?」
「ええ、そうよ」
「そうか」と呟いて腕組みをする
「あのね、どうしても聞きたいのよ。

駄目かしら」

●第4話
「俺の子供の頃の事をですか。

どうしてまた……」
「うん、話せば長くなるんだけど、あなたに会ってみたいとずっと思っていたの。

それで昨夜、夢にあなたが出てきたのね。

それで、あなたが子供の頃の事を教えてくれたんだけど、どうも信じられなくてね。

それであなたの子供の頃の事を詳しく教えて欲しいのよ。

それで納得できたら帰ろうと思うんだけど……」
「ははあ……」俺は考えた。

しかしどう考えても解らない。

俺は子供の頃の記憶が無いのだから だから正直に「俺は記憶に無いんですよ。

子供の時の事は何も覚えていないんです」と言うしかなかったところがだ。
●第IV話

由香里さんの方は何故か俺の言葉に納得している様子でいる
「やっぱりそうなんだわ。

子供の時に受けた傷が原因で子供時代の事を忘れてしまっているのよね。

だから思い出せないんだわ。

でも大丈夫。

あなたには私がついてるんだから」と言う
「はあ、それはどういう意味なんですか?」と尋ねたが返事はない「とにかく 子供の時の事を知りたいと仰るなら、俺より詳しい人がいますよ。

俺の親父なんですがね。

その人に聞いてもらった方が良いですよ」
「うーん、それはそうかも知れないわね。

でも、あなたから直接話を聞きたかったのよ」
「俺の子供の頃の話をですか」
「ええ、そうよ」
俺は溜息をつくしかなかった。

「そう言われましてもね……本当に何も知らないんですよ。

子供の頃の記憶がまったく残っていないものですからね」
由香里さんは少し考えるような仕草をして
「そう……それならば仕方がないわね。

解ったわ。

もう諦めましょう。

その代わり……ひとつ約束してくれる?」
「はい?何をですか?」
「あなたが大人になったら 私と結婚してくれないかしら?」
俺は彼女の言葉の意味を理解するのに数秒かかったが 理解してからもしばらく考え込んでしまうほどだった。

それから慌てて答えた
「ちょ……ちょっと待って下さい。

結婚だって!? 由香里さんと俺がですか?」
「ええ、そうよ。

嫌かしら?」
「い……いや、そんな事はありませんが……しかし……唐突過ぎませんかね。

俺達は出会って間もないし、それに……俺はまだ高校生だし……その……色々と問題があるんじゃあないですか?」
「あら、問題なんて無いじゃない?私達、お互いに好き合っているのよ。

だから結婚したいと思えるのよ。

それとも……私と結婚するのは嫌なのかしら?」
「いえ、とんでもない。

俺は由香里さんが好きです。

だけど……由香里さんは美人だから……他の男達に言い寄られるんじゃないかと心配で……その……自信がないっていうか」
「ふふ……そんなに褒めてくれてありがとう。

嬉しいわ。

あなたって優しいのね。

だけどね、私、あなた以外の男性に興味は無いの。

あなた以上の男性は他に存在しないもの」
「ははあ、それほどでもないと思いますが」
由香里さんは立ち上がって俺を見つめた
「私はね、あなたを愛しているの。

愛しているから一緒にいたいし、あなたとの子供も欲しいと思っているの。

私はあなたと一緒に生きていきたいの。

あなたも同じ気持ちだと信じているわ。

ねえ、そうでしょう?」
「は……はい。

それは俺もそう思います」
「だったら、何も迷うことは無いじゃあないの。

私はあなたと結婚しましょうと言っているの。

どう?」
「は……はあ、まあ……そうですね」
「じゃあ、決まりね。

今日からあなたは私の夫になるのよ。

これからよろしくね」
「いや……その……まだ早いんじゃあないでしょうか。

俺としては……その……もう少しお互いを知ってからの方が……」
「そう? まあ、いいけど。

じゃあ、今日はこれで帰る事にするけど、近いうちにもう一度会いに来るわ。

その時までに考えておいてね。

あなたは今日から私の夫となっていくのよ。

そのつもりでいてね。

あなたがどんな選択をしても、その通りに行動しますから。

覚悟していてね」
由香里さんは微笑みながら帰って行った 俺は彼女が出ていった玄関を眺めながら呆然としていた 一体、何が起きているんだ? 由香里さんはどうして急に 俺と結婚をしようと言い出したんだ? 彼女はいったい何者なのだろう?……解らないことだらけだ
「ははあ、夢の中の女性が現実に姿を現したってわけか」
洋治は頭をボリボリと掻いている
「何だか 妙な気分だな。

まさか、あの由香里さんとお前の結婚話になるとは」と父は驚いている
「そうだね。

俺もまだピンとこないよ。

突然現れた女性なんだから」と俺は言う 父がコーヒーカップを両手で抱えながら言う
「ところで、話は変わるんだが 最近、体調の方は大丈夫か?」
「ああ、別に変わりはないけど、何か?」
「うむ、まぁ 特に変わった事もないようだが、あまり根を詰めすぎないようにしろよ。

仕事もいいけど程々にな」
「うん。

解ってる」と返事をする 父の方はあまり由香里さんの事に触りたくないようだ やはり父と由香里さんとの過去に何らかの繋がりがあるらしいが 今ここで問いただす事ではないし 俺自身にも過去にまつわる話は一切ない だから、この場で言えるのはこの程度なのだ だが父はそれ以上の事は何も聞かず、別の事を聞いてきた
「それで、さっき言ってた話の続きはしないのか?」と聞かれて
「うーん、どうするか……」と考えたが結局、止めておくことにした 何となくだが、話せば話すほどドツボにはまる気がしたのだ 父に気を使ったわけではないが 父に対して隠し事があるのも事実である 何よりも父を巻き込みたくはなかったから黙っている
「じゃあ、話も終わったし。

そろそろお暇するとしようかな。

ご馳走様。

おいしかったよ」
と、父は帰り支度を始める
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「うん、今日中に片付けないといけない事もあるんでね。


●第5話
そっちが落ち着いたらまた来るから。

それじゃあな。

お邪魔しました」
と言って家を出ていく 俺は見送ってドアに鍵をかけて部屋に戻った。

部屋の明かりをつけようとしてスイッチに手を伸ばした時、足元が揺らいだような感覚がした。

眩しい光が視界に飛び込んでくる 蛍光灯に目がくらんだのだと理解した時には既に遅かった 身体の力が抜けていき立っていられなくなる
「まずいな」と思った時には 床に倒れ込んでいた 薄れていく意識の中で時計を見ると、午後2時半を過ぎている。

昼食は食べていなかったのに、腹が減ってなかったのはそのせいなのか。

それとも貧血だろうか。

どちらにしても食欲が無いのはまずいかもしれない。

後で食事はちゃんとしないといけない。
●第V話

そう考えながらも、そのまま眠りに落ちた どれくらい時間が経ったろうか?目を覚ました時は薄暗かった。

辺りを見回してみても人の気配は無かった いつのまに俺は寝てしまったんだろうと、ぼんやりと考え始めるが、すぐ傍に置いてあったスマホを手に取って画面を見た。

そこには午前1時過ぎの表示があった 2時間以上眠っていたことになる。

俺は大きく伸びをして上半身を起こした 頭が重い 疲れているようだ。

それもそうだろう、昼間にあれだけの事をやったうえに、夕食抜きだからな 喉が渇いていた。

水を飲んでからトイレに行ったが便意はなく 少し楽になったような感じだ リビングに戻ってソファーに腰掛けた。

煙草を取り出して一本口にくわえると火をつけた。

そして大きく煙を吸い込んだが吐き出さずにいると、だんだんと胸が苦しくなってきた。

これは良くないと思って吐き捨てた。

それからテーブルの上に灰皿があることに気付いた。

そこに手を伸ばしたが、指先に上手く力を入れる事が出来ない 手から灰が落ちそうになった。

そこでようやく気が付いた これではダメだ しっかりしなくては 何とか立ち上がった。

ふと壁にかけてあるカレンダーが目に入った。

日づけを確認する それは4月20日の事だった。

今日は何曜日だったっけ?と一瞬考えたがすぐに思い出す。

水曜日、そうだった。

俺は高校3年になっていた。

今日は俺の誕生日じゃないか。

だから両親はあんな事までして俺を連れ出したに違いない。

そういえば、昨日の夜、日付が変わった頃 両親が「ハッピーバースデー」と言い合って、その後、「これからも元気でいろよ」と言っていたのを思い出す どうせなら、もっと前からやってくれたって良かったのに。

しかし誕生日の祝いなんて何年ぶりなんだろう。

少なくとも子供の頃に祝ってもらった記憶は全く無い。

もしかすると物心ついた時から一度も無かったかも知れない。

だから自分の生まれた正確な日付すらも俺は知らない。

俺の本当の生年月日を知っているのは家族だけなのかも知れない それにしても両親は何のために わざわざ連れ出して俺を祝福してくれようとしたのだろう?俺へのプレゼントを買うためか、それとも両親自身の何かの記念日か……しかし、もうそんな事は確かめる事もできないのだが…… それを考えると寂しさを感じるが仕方がない 今の俺にとってはそれが現実だ ただ受け入れるしかないだろう それから再びソファに座ってテレビを付けた。

適当にチャンネルを変えてみるが面白い番組もやっていないので直ぐに消す事になる。

他にやれる事もないので本棚の前に立って本を引っ張り出すが読む気にはならなかった。

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俺は何がしたいのだろう?そう思いながら窓の外を見てみると空が白んでいた
「こんな時間に起きてもしょうがないよな」と思いつつも、どうにも眠ることが出来ずにいる ベッドへ行こうとしたが立ち上がるのが面倒だった だからといって椅子の上で寝るのは無理なので床に転がることにした。

そうしてうつ伏せになって、ずっと外の風景を見ていた ふと俺は昔、同じような光景を目にしたことがある事に気付く そう あの頃は毎晩のように窓から景色を眺めていた その度に違うものを発見してはワクワクしたものだったが 今日という日に改めて同じ風景を見るのが、これほど辛いものだとは思わなかった。

それは多分、この世で俺一人だけが取り残されたという証のようなものだから 俺はこのまま死ぬのかもしれないと思うが不思議と恐怖感はない。

ただひたすら悲しくてやるせないだけだ。

涙は流れない 泣いてしまえば楽になるだろうが、そんな気持ちさえ湧いてこないのが悲しい 俺の悲しみを分かち合える人がいないというのは、なんて孤独なものなのだろう。

その孤独がもたらす感情はあまりにも深く俺を包み込んでいるから耐えられるのかも分からない。

もしかすると俺の心は壊れているのかもしれない だけど今は生きている こうして生き続けているから だから俺はまだ頑張らなければいけない まだ死ねない 生きていなければならない まだ諦めるわけにはいかないのだ。

俺に残されたものは何なのだろう? それは時間だけだった。

それだけが唯一の希望であり生きる目的なのだから。

あとどれだけの期間が残されているのかは俺自身でもわからない。

それでも最後まで頑張っていこうと心に決めた。

もう迷わない。

迷っている暇などないのだから…… 朝になり目覚めたが、やはり腹は減らなかった。

とりあえず顔を洗って着替えをした。



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