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第3話

 ナオトが奥の部屋から出てきたとき、店内にシオリの姿がなかった。ゲンイチロウは、それが仕事であるかのように、黙々とグラスを磨いている。
「シオリは?」
「外で打ち水を撒いている」
「そうか、暑い中、それはご苦労なことで」
 ナオトはカウンター席につくと、アイス・コーヒーを注文した。ゲンイチロウは、アイス・コーヒーをグラスに注ぎながら、ナオトに言葉をかけた。
「シオリにいわれたよ。『自分は喫茶店のマスコットなのか? お飾りなのか?』とな」
「で、どう答えたんだ」
 ゲンイチロウは太い腕を組んだ。
「うむ。喫茶店のマスコットというのはあたっている。しかし、探偵事務所としては貴重な戦力だと思っている」
「そういったのか?」
「そう思ったんでな。そういうことを話したんだが」
「それで充分じゃないか?」
「うむ」
 ゲンイチロウは、どうも歯切れが悪かった。ナオトは顎をしゃくって話を催促した。
「キョウジにいわれたよ。『学生の本分は勉強ではなく、学校へ行くことだ』、とな」
「キョウジらしい、おもしろい見解だな」
 ナオトはアイス・コーヒーに口をつけた。
「ああ、おもしろい。で、シオリのことなんだがな」
「ん?」
「長い間ここにいることが多くてな。学校へは週三くらいしか行っていないようなんだ。出席日数が足りないと留年ということもありえる。余計に学校へ行きづらくなるだろう。考えたくはないが、中退の二文字を選ぶようなことだけはさせたくない。シオリはまだ高一だ。本人のために、なにか言葉をかけたほうがいいかな?」
「本人のため、か」
 道路に面した窓の外で、シオリが打ち水を撒いていた。その様子を窓ガラス越しに目に止めて、ナオトは顎に指を当てて考え込んだ。
 ナオト自身、必死に猛勉強をして、いわゆる良い(・・)大学へ入ったものの、大学生活には馴染めなかった。無理をした分、反動は大きかった。虚脱感というか虚無感というのか、とにかく、ポッカリと心の中に大きな穴が開いていた。そんな感じであった。大学へ入ることが目的になっており、その先のことはなにも考えていなかった。新たな目標を探している内に、時間だけが過ぎていった。気がつくと、なにかなしに大学へ通っていた。いや、一日一日を虚しく過ごしていた。
 大学の一年目は、とにかく履修できるほとんどの講義を受けていた。コンビニでアルバイトもしてみた。しかし、なにか足りない。軽い気分転換にと、今まで通らなかった道を歩いてみた。見慣れない景色は新鮮に感じなかった。いつもとは違う景色でも、似たようなものである。結局は灰色である。ただ、黒い猫と目があった。結果的に、その行為が、ナオトの生活と意識を変える契機となった。
「喫茶? 探偵?」
 訳がわからなかった。ナオトは、喫茶店『四季』に入った。
 店内を見回すと、あることに気がついた。店には入り口がふたつあり、ひとつは喫茶店『四季』の入り口で、もうひとつは探偵事務所『四季』の入り口であった。店内には別に敷居や間仕切りがあるわけではなかった。ただ、端に小さな囲いのようなものがあるので得心がいった。『四季』とは、喫茶店と探偵事務所の二枚看板を掲げていたのであるが、何度か通うようになって、その意味を知ることになる。
 ゲンイチロウにスカウトされて、ナオトは、とりあえず一年間、大学を休学することを決めた。退学ではなく休学である。キョウジにいわせれば、「また、中途半端な」ということになるが、戻れる場所があるというのは、卑怯かもしれないが、安心感があった。
 今は充足感がある。そのおかげか、勉強するのも悪くはないと思えるようになっていた。講義には出てはいないが、家で勉強する時間が増えていった。少し回り道をしたかもしれなかったが、いい経験であった。としておこう。しかし、自分のような生き方を他人に無責任に勧めようとは思わなかった。シオリにはシオリに向いた生き方があるだろうと思うし、選ぶ権利があるだろう。
 シオリは髪に赤、黄、青のメッシュを入れている。そのことで問題視されている。自覚はあった。自分は問題児だと。
 シオリが髪にメッシュを入れた理由はわからない。尋ねていいものかどうか、わからなかった。誰しも、触れられたくないことのひとつやふたつはあるだろう。無理に尋ねる必要はないのではないか。ナオトはそう考えていた。本当に助けが必要なときには、話してくれるかもしれない、と。
 ナオトはアイス・コーヒーの入っているグラスに目を落として、指で弾いた。氷がカランと音を奏でた。
「人生経験なら、マスターのほうがおれより長いんじゃないか?」
「年齢が近いお前のほうが、シオリの心情がわかるんじゃないか?」
 ゲンイチロウが即応した。あらかじめ質問を用意していたかのようであった。
「うーん。そうだな」
 天井の端に視線を固定して、ナオトは考えた。
「おれはカウンセラーじゃないからな、正しく導けるかどうか、はっきりいって自信がないな。それに、こいつは、そう簡単に答が出る問題ではないだろう。宿題にしておいてくれないか?」
「そうだな、すまんが考えておいてくれ」
「特別賞与が欲しいところだがね」
「考えておこう」
「嘘をつけ」と、ナオトは頭の中で、ゲンイチロウの頭を二回ほどはたいた。それは給料を人質に取られた者の、ささやかな抵抗であった。
 躍動的(リズミカル)にドアベルが鳴った。店のドアが開いたようである。シオリが店内に戻ってきたようである。
「あー、涼しい。生き返るー」
「おう、ご苦労さん。アイス・レモンティーでも作ってやろう」
 ゲンイチロウが気を利かせた。シオリはナオトの横に腰を下ろすと、不思議そうにナオトの横顔を見つめた。
「どうしたの? 難しい顔して」
 ナオトは表情を改めるために、頬をひと撫でした。成功したかはわからなかったが、ナオトは適当に返事をした。
「高尚な、哲学についてだな、マスターと意見交換をしていたんだ」
「なにそれ?」
「はてさて」
 ナオトは韜晦した。シオリに尋ねていいものか迷いがあったし、宿題にしておいてくれといったばかりである。それよりも、思い出したことがあった。
「そんなことよりだ、こいつを聞いてくれ。マスターもな」
 ナオトはスマートフォンを取り出すと、先ほどカナタがコピーしてくれた音声を再生させた。
 ゲンイチロウとシオリが真面目な表情で聞いていた。音声が止まると、ナオトはふたりの顔を交互に見た。
「どう思う?」
 ナオトの質問は漠然としたものであった。ゲンイチロウは質問には答えなかった。
「ナオト、お前、こんな大切なことを忘れていたのか? やはり疲れているんじゃあないのか?」
「いや」
 シオリのことが気になっていて、他のことは考えられなかったんだ、という言葉をナオトは飲み込んだ。ナオトはシオリに目を向けると、そのあからさまに不愉快そうな表情を見て、そうだろうな、という風になんどか小さくうなずいた。
「孕ませたことがないとか堕胎させるとか、女の子をモノのようにいっているようで、女性蔑視の発言に聞こえる。あたし、こういうの嫌いだわ」
 シオリは口をへの字に結んで、細い眉を釣り上げている。論評することさえ、嫌悪しているようであった。
 ナオトはゲンイチロウに目を向けた。ゲンイチロウの言葉を聞くまでもなく、悪感情を抱いているような表情であった。
「そうだな、自分自身で女性蔑視の発言についても言及している。わしもシオリとおんなじだ。嫌いだな」
「好き嫌いを問題にはしていないんだが」
 ナオトは、つぶやいてから、話を続けた。
 慶一はいくつも浮き名を流してきたと自ら語っていた。一叩きするだけで、膨大な量の埃が立つのは間違いないだろう。そのあたりのことを洗ってみるのは当然のこととして、果たしてそれだけで、慶一を追い込むための手札となるだろうか。慶一と情を通じた女性たちの中から証言を得たとしても、大人の男女の自由な恋愛ということになるのではないか。もちろん詭弁に類するものではある。ただ、そのような言い逃れが可能なように、含みを持たせることができるような関係性に落とし込むことができるように、初めから意図している、のではないか。
「考えすぎだろうか」
「そいつはわからんが、過去の精算をしなくてはならないと彰男が語っている。それは、金でかたをつけようという魂胆だろう」
 ゲンイチロウは吐き捨てるようにいってから、アイス・コーヒーの入ったグラスを呷った。
「ますます、気に食わん男だな」
「同感ね」
 シオリがゲンイチロウの評価に同意した。ナオトはそんなふたりを前にして、アイス・コーヒーで喉を潤してから話を続けた。
「気に食わん男というのは、おれも同感なんだが、ふたつ気になることがある」
「気になること?」
「果たして、過去の精算とやらを金で解消できるかな? たとえば、週刊誌に暴露するとかして、風間慶一を貶めようとする女性がいてもおかしくはない。匿名でね。それに、ネットに晒す女性も、もしかしたらいるかもしれない」
「お金以外で解決できるってこと?」
 シオリに向けて、ナオトはうなずいてみせた。
「シオリならどうする?」と、聞こうとしてナオトはやめた。十六歳の少女に、情を通じたことに関して質問するのは、公序良俗に反するというよりも、精神衛生的に良くないと思ったのである。ナオトはゲンイチロウを見た。
「マスターはどう思う? 風間の人間は風魔の一族だ。情報がいかに重要かを知っているはずだ。どうしようもないくらいの相手の弱みをつかめれば……」
「おおっぴらには出来んか」
 ゲンイチロウは太い腕を組み替えた。
「弱みをつかまれれば、泣き寝入りするしか無いか。ますます、気に食わん奴だな」
 ゲンイチロウが、風間慶一のことを、「男」から「奴」にいい替えたのは、先刻以来の話を聞いていて、嫌悪感が増したからであろうと思われた。
「それでは、どうやって追い込む?」
「風間が情報を重視しているように、おれたちも仮にも探偵だ。相手の上をいくしか無いだろう」
「手はあるの?」
 ナオトは質問者のシオリに目を向けた。
「残念だが、地道な情報収集しか、今のところ思い浮かばない」
 ゲンイチロウは数回、深くうなずいた。
「わかった、いいだろう。どんな手を使っても構わん、奴の弱みを手に入れろ」
 今やゲンイチロウは、風間慶一を男の風上にも置けない奴だと結論づけていた。同じ男として、許してはおけない。野放しにしておけない、と。
 ナオトは深くうなずいた。それから、少し頭を傾けて語を継いだ。
「それで、もうひとつなんだがな。こちらのほうが厄介かもしれない」
「ん?」
「このふたりの会話なんだが、慶一と彰男という固有名詞が使われていないんだ、一度も」
 ゲンイチロウとシオリが同時に目を丸くした。
 ゲンイチロウに確認のためにもう一度聞かせるようにいわれて、ナオトは音声を再生した。
「この音声を録音したのは大学のトイレでだ。その時、おれは一番奥の個室に入っていた。それに気づいていたのか。それとも、内容が内容だけに用心していたのか。とにかく、おれも会話を聞いていてなにか腑に落ちなかったんだが、先刻(さっき)カナタと音声を聞いて、ようやくその原因がわかったよ」
 ゲンイチロウが腕組みした。
「聞きしに勝る、用心深さだな」
 ナオトは深くため息をついた。ゲンイチロウの評価に同意したのである。
「実際に慶一と彰男の声を聞いたことがあるのはおれだけだ。声紋分析すれば、特定は可能だろうが、サンプルの音声が必要だ。念のために用意はしておくが」
「解析については心配するな。お前はデータを集めろ。それと、弱みをな」
「わかった。じゃあ、おれも行ってくる」
 ナオトは軽く手を上げて、『四季』から出て行った。その姿を見送ってから、ゲンイチロウがアイス・レモンティーをシオリの前に置いた。話し込んでいたために、差し出すのを忘れていたのである。
「なんなの?」
「ん?」
「なにかいいたそうな顔してるよ」
 ゲンイチロウは目を瞬かせた。女性特有の、と形容していいものかはわからなかったが、シオリは鋭いところがある。ゲンイチロウは気分を落ち着けるために、冷水の入ったグラスを呷った。グラスをカウンターに置くと、ゲンイチロウはシオリを見つめた。話すべきか話さざるべきかと考えたが、結局、前者を選択した。
「シオリ、学校は楽しいか?」
 尋ねてから、ゲンイチロウは直截すぎたのではないかと後悔した。すると、ゲンイチロウにとって思いもかけない答が帰ってきた。
「楽しいよ、すごく」
 シオリはアイス・レモンティーをストローで吸った。
「そう、なのか?」
「こう見えても、あたし友達も多いし、親友だっているのよ。試験(テスト)の点数だって悪くないし。生活態度は別だけれどね」
「そう、なのか?」
 ゲンイチロウは同じ言葉を繰り返していた。
 シオリの試験の結果は決して悪くはなかった。ただ、本人がいったように生活態度はよろしくはない。遅刻、早退、欠席の常習犯であったが、そのくせ、試験の結果が良いのだから教師にとっては面白くない。そう考える教師が多かったのは事実であった。問題児ではあったが試験の結果が良いのだから、他の生徒の手前、叱りつけると反感を買ってしまう。
 ある日、こういうことがあった。高校にあがる前、中学生の頃の話である。
 髪のメッシュを非難する際に、「親の顔が見てみたい」といった先生がいた。腹が立った。その後、その先生の教科の試験の時、ひとりだけ全問正解の生徒がいた。シオリであった。でも名前が書いていなかった。嫌がらせである。その先生は、生徒たちの反感を買いたくなかった。結果、試験の結果は、百点となった。だが、通知表での評価は低かった。それはかまわなかった。事実だから。ただ、シオリの母親を呼びつけて、ネチネチと説教したのは許せなかった。その後シオリがどうしたか、その先生の授業をサボタージュしたのである。
 親友と呼べる友だちもいると聞かされて、ゲンイチロウは安心した。安堵した。敬遠する生徒も多いかもしれないが、親友がいるのであれば、心配はないのかもしれない。ただ、キョウジがいっていたように、気になるのは出席日数である。留年するかもしれないとすると、雇い主である喫茶店の店長としては、気を回してしまうのは、道理であった。
「出席日数は足りているのか?」
「あたしも馬鹿じゃないわ。そのあたりのことにぬかりはありません。ギリギリセーフといったところだから」
 シオリはゲンイチロウを安心させるために明るく語ったが、ゲンイチロウの不安は払拭されなかった。
「ギリギリセーフか、できれば、余裕が有るといってくれると安心できるんだが」
 シオリは胸を張った。
「大丈夫よ。危なくなったら学校に行くつもりだから」
「そうか?」
「そうよ」
 シオリは屈託のない笑顔で答えた。
 それならば、ゲンイチロウのすることは、黙って経過を見守ることであろう。そう思った。
 これで、この話は終いである。本人が問題がないといっている以上は、無理をしてまで世話を焼く必要もあるまい。ゲンイチロウはしばらく、様子を見ることにした。ナオトに頼んだばかりであったからでもあった。
 その夏目ナオトのことを、冷静に沈着に観察している者がいた。都筑彰男である。
 昨夜のことである。都筑彰男は風間慶一の居室にいた。時間は二十三時を回った頃である。それは丁度、ナオトがスナック・バー「千歳」で目を覚ました頃であった。
 室内は薄暗く、テーブル上に置かれている、心を落ち着かせる作用のあるアロマ・キャンドルの灯火のみが、暖色系の灯りを放っていた。非常に静かであった。ただ、クーラーの稼働音のみが、耳を澄ませばかすかに聞こえてくるかのような静寂に包まれていた。
 部屋の主である慶一が、ソファーに身体を埋めて、右後方に控えている彰男に目を向けた。
「彰男。どうした、浮かない顔をして」
 彰男の姿は大きな姿見に映っており、それを慶一が見とがめたのである。
「はい、実は、気になることがございます」
「気になること?」
 慶一が怪訝な表情を、鏡越しに彰男に向けた。
「最近、妙な男とよく目があうのです」
「目があう? ふっ、また、おれのことを僻んでいるのであろう? そんなものは捨てておけばいい」
「ですが、その男と目が合うようになったのは、ここ数日のことです。年齢的に大学生には見えますが、それまでは見たこともない男です。不自然かと」
「不自然、か」
 その単語を耳にして、慶一は、いぶかるように端正な眉を寄せた。
「相手の名前は?」
「わかりません。ですが、以前、街でハンカチを落とした男のことを、覚えておいででしょうか?」
「いいや、覚えてはいない。ということは、取るに足らん男ということだろう」
 慶一は深く考えることもなく即答すると、「捨てておけ」と、つけ加えたが、彰男の表情は冴えなかった。
「こちらから探りをいれることをお許し下さい」
「それほど気になるのか?」
 彰男は黙したままうなずいた。
「そうか、ならば、その男のことはお前に任せる。なにかわかったら、報告しろ」
「はい」
 夏目ナオトの身辺調査を、彰男は、風間グループの傘下にある信頼にたる探偵事務所には依頼しなかった。彰男は慶一の影のようなものである。影が使うのは影である。彰男には独自の高次の諜報網がある。それに動いてもらったのである。
 不穏な空気が、吹き始めようとしていた。

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