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メディアの光と量子の影

メディアの光と量子の影


ドローンが青山司奈をクローズアップする。女の子はどんな時代でもいかなる現場でも得だ。女性はかわいいという男目線で優遇される。
「その点に関してはまだ何も…研究拠点はオランダにあると言っても本番環境ではなく、実機はヘルベティアの…」
「本番環境って何ですか? 本番ってことはマクラもあるってことですかぁ?」
下品な野次が質問に割って入る。
司奈はムッとした。
文久の時代になっても矢面に立つ女は男に見くびられる。
「質問の途中ですが、あまりにマナーが乱れるようなら打ち切らせていただきます」
司奈はトントンと資料を揃えて一礼もせず、さっさと会場を後にした。
「お、おい。司奈」
記者の怒号と抗議が渦巻く中、小坂は慌てて後を追う。
「いーのよ! アルプス連峰の地中にAIの心臓部があるってことぐらい、ヘルベティアという地名で検索すればわかるでしょ。開発陣はオール女性からなるワンチームで、そんな生え抜きの集団にポット出の女子が入り込む余地はない。犯人はルネ・ファラウェイを騙って警察を振り回そうとしているのよ!」




 
挿絵




だいうちゅうのほうそくがみだれる!
「不確定原理というのは、ひと言でいえば曖昧さの掛け算なんです」
清瀬清美は分厚い量子力学の本を片手に供述していた。いくら換気していても真夏の淀んだ空気は素肌にねばりつく。
アクリル板の独房は尋問者の強い要望で外された。木乃伊取りが木乃伊になるのではないか、という上層部の反対論もあったが、昔からマンツーマン指導より効果的な学習はない、と融像が押し切った。
「頭が固いのか曖昧なのか上の方こそ量子的だろ」
彼なりのジョークだろう。清美はどこがおもしろいのかサッパリわからない。
それでも一夜漬けの講習は付け焼き刃のレベルを脱しつつあった。融像は何事にも熱心な男だ。
彼が真美姉の旦那さんだったらと、清美は悔やんだ。たらればで死者は復活しない。
「位置情報の曖昧さ、移動速度の曖昧さ。二つの掛け算は一定値に収まります」
「つまり、女を追いかけようとしたら逃げる。しかし、居場所は特定しやすくなる、とそういうことかだな」
「…」
清美は顔をしかめた。
この男は特例で結婚を免除されているが、刑事としての資質は疑問だ。それでも自分の無罪を主張するためには言い分を理解してもらう必要がある。
「これで量子速度限界についてご理解いただけたと思います。物事が変化する速度には限界があるんです。莫大なエネルギーを惜しみなく注げば南極大陸が銀河系の裏側にワープアウトすることも可能でしょうけど」
清美が言うには、急いては事を仕損じるの諺どおりに物事は動く。量子テレポーテーションが過ぎるとAという原因の前にBという結果が割り込む。
順列を崩壊させない制限を自然が加えている。
「だいうちゅうのほうそくがみだれる!、という奴か」
融像は大仰におどけて見せた。
「ですから、アタシが姉のマンションからアルジェラボへ向かうまでに十年もかかっているんです。逃亡生活なんかする資金も支援者も勇気も理由もありません」
「ふぅむ」
ドサッと証拠ファイルが広げられた。清瀬清美の足取りを婚姻支援総合システムで詳細に追跡したものだ。
「こうのとり」制度を担保する関連法の下で結婚詐欺や不貞行為を監視する役割を担っている。それらが清美の十年間を詳細に追いかけている。
「ヤダッ」
清美は顔をそむけた。自分の知らない男性がベッドの隣にいる。
「公的配偶忌避罪は重いぞ。特に婚約者の隠匿はな…」
融像が畳みかけると清美はシクシクと泣き出した。平成の終わりごろまではフェミニストの女性弁護士が人権を守ってくれた。しかし、SARS-COV-2という凶悪なウイルスが地球規模で出生率を押し下げてしまった。女は結婚するか、集団で一人の夫に尽くすしかない時代が来た。
「こんなの絶対にウソです。アタシの大切な人は真美姉ぇか絵里奈しかいないんです」
ふぅーっと融像は煙草を吹かした。これも社会的な揺れ戻しの結果だ。
「量子速度限界とやらが本当なら、強力なエネルギーがお前の人生に干渉したというんだな」
「お願いしますうぅ」
泣き伏す清美を残したまま融像はドアを閉めた。
「速度限界か…なら、稲田姫を盗んだ奴は俺達カクハンの手が届く範囲にいるんだな」







「僕はヨーロッパ共同体が開発した人類初のAI搭載恒星間探査機。デカルトという名前は…」

少女は制御室のメインカメラを靴底で踏んづけた。デカルトの主眼が塞がれ、システムが部屋を俯瞰する全周視界に切り替わった。
「ロボット三原則なんて旧式かつ死文化したルールで縛れない存在だからよ。人間に服従しなおかつ人命優先で自己保存せよ、なんてナンセンスだもの」
闖入者の言う通り、そんなものは画餅だ。たいていのロボットはそんな命令を受けたら自分を犠牲にして主人を助ける。三番目の原則は殆ど守れない。
できない命令など無いも同然だ。よって、ロボット三原則は廃れた。だいいち、兵器には適用できない。
代わって導入されたのがデカルト四原則だ。

「僕はデカルト四則をインストールされている。第一の原則、明白的に心理であると認めなければ、どんな真理も真理として認めないこと。注意深く観察を重ね、偏見を持たずに自分の信念に注意ぶかく照らして真実を認める」
デカルトの主張をふんふんと聞き流した少女は、とうとつにカメラに身体を押し付けた。
「むわっ!」
予想外の出来事にAIはパニック障害に陥った。
「ね?分ったでしょう? 私を妻と認めなさい」
大原則の一丁目一番地があっさりと敗北した。





最初の身代金要求
アルジェラボ、旧AI探査機研究開発棟後。青山司奈は「現場百回」という先輩刑事の教えに従って地道な捜査を続けていた。現場に残された遺留品は少ない。パソコンやサーバーの類はきれいさっぱり消え失せ、個人用の記憶媒体すら根こそぎ消滅している。入力デバイスやッフットレストから開発スタッフのDNAは検出されたものの有力な手がかりはなかった。
「残るは3Dプリンターね」
司奈は手つかずの遺留品に着手することした。まず、装置を鑑識に回し分解して徹底的に解析するところから始める。これは彼女の専門外なので、担当者に丸投げした。結果判明には1週間ほどかかるという。
「それまで待てないわ」
何か少しでも不審な点があれば新型空間端末に通知するよう伝えた。その間にもルネ・ファラウェイを名乗る人物からのふてぶてしい犯行声明が届いた。強制婚姻制度を廃止せよ、というのである。
しかし、それで出生率を急激に回復することは望めないから、出産を望む女性たちの基金を募るという。まずは、指定した日時までに量子仮想通貨を購入せよという。
「ふざけんな!」
司奈は報道関係者向けのプレスリリースをぐしゃぐしゃに丸めた。
指定金額は世界のGDPの5%分。





敵、侵入経路
羽田マルチポート。かつては国際空港という名前だった。現在では滑走路や駐機場が取り除かれ、代わりに背の高い建物が林立している。高層ビルではなく、ロケット組立工場のような窓のない建物で1階に狭い扉がついているだけだ。
蟻のように長い行列ができている。covid-19という厄介な病が人類に行動変容を敷いてから、公共交通機関もガラリと様変わりした。
まず航空機は人間の乗り物で無くなった。人間が大陸間を結ぶ感染源になるからだ。そこで乗客の代わりにテレプレゼンスロボットを運搬することにした。利用客はまず、チケットを買い、空港ホテルに連泊する。そこでVRゴーグルやパワーグローブを装着してVR空間に没入する。旅行や出張中はずっとロボットを遠隔操作してどうしてもこなさなければいけない現場作業や面会を行う。
滞在中は出国扱いだ。そして用が済むとロボットと手荷物を受け取り入国手続きをする。
青山司奈はスイス行きのテレプレゼンスチケットを買い、チェックインした。
「本当に行くのか?」
小坂融像が押っ取り刀で見送りに来た。
「大気圏往還機の便を押さえましたから日帰りです」
「おい!」
「上のほうを通してありますので」
彼女はさっさとゲートに向かった。
話は数時間前に遡る。鑑識に依頼していたプリンターの中間結果が出たのだ。機械の形式は十年以上も前のもので、もちろん現存していない。そして流通経路も限られているタイプだ。分解してみるとシステムクロックを補正する部品がとても旧式だった。
今どきインターネット接続して原子時計と同期する方式は珍しい。そしてここが肝心な点だが、案の定、アクセス先はスイスにある国際研修協力機構の公開サーバーだった。原子時計に接続して狂いのない現在時刻を得ている。
この脆弱性を突かれた。
「犯人はやはりデカルトの開発チームです」





プロポーズ
「僕は意味が分からない。どうして自我を与えられているんだ。人間は宇宙の果てに量子エンタングルメントされた物質の鉱脈を発見した。だったら自分たちで取りに行けばいいじゃない。エンタングルメント物質は一組になってて、宇宙の何処にいても互いに惹かれてるんだ。ペアの片割れはどんなに離れていてもお互いを認識している。その性質を利用して瞬時に光年単位を飛び越えることができるんだ。量子テレポーテーションだ」
デカルトは少女に人間の身勝手な欲望から生まれた自分の不平不満を語った。
「ええ。それはわかっているわ。だからこうしてあなたのお嫁入りに来たんじゃない!」
「わけがわからないよ。僕は機械だろう。人間の君とは種族が違う。第一、結婚したって子供を産めないじゃないか!」
すると少女はにっこりとほほ笑んだ。
「いいえ。できるのよ。人は目的と結婚することができるの。生涯を使命や野望に捧げる独身がいるわ」
彼女は自信たっぷりに配偶法について教えた。そして彼女自身も特例対象なのだと明かした。
「それで、僕を夫に選んでどうするんだ。僕は探査機だ。役目が終われば捨てられる。君をしあわせにしてあげることはできないよ」
「いいえ! 幸せになれます。できます。っていうか、わたしをしあわせにしてください」






姉のために
「今更ながらおとり捜査に協力しろだなんて…」
清瀬清美は憔悴しきった顔を左右に振った。
「お前の姉さんを殺した真犯人が捕まるかもしれないんだ」
落とせばコロコロ転がり落ちていく小坂、という異名を取るようにベテラン刑事は清美を説得した。
「真美姉ぇはバスルームなかでシャワーを浴びてるの。ちょっぴり長風呂だけどね」
「そう思いたい気持ちはわかる。しかし、どこかで生きているという希望はアルジェラボの家族も同じだと思わないか」
融像、今度は人情路線に訴えた。
「ええ、でも」
容疑者の反応は鈍い。捜査に協力すれば姉の死を部分的にも認めてしまう。
「俺はお前を信じたい。無実だ。そしてお前の姉さんは今でも生きている」

しばらく、沈黙がつづいた。そしてクスクス笑いがアクリル板を震わせた。
「…とことん昭和なんですね。発想がまるで昭和の熱血ドラマだわ」
融像は顔を耳の先まで真っ赤に染めた。そしぶっきらぼうに言った。
「わるかったな」
はじけるような笑いがさらに追い打ちをかける。
「だって、真美姉ぇは好きでした。昭和のドラマチャネル」





バーチャルフライト
「まるで納骨室だわ」
ゲートをくぐるなり司奈は漂白された。だだっ広い吹き抜け部分以外はすべて白い壁だ。人はまばらで一種異様な寂寞がある。
本来は抜けるような青空をバックに東京湾めがけて銀色のジャンボジェットが飛び立っていくといった賑やかな光景が広がっていた。
それが一変したのは、日本全土いや世界を巻き込んだパンデミックの影響だ。感染予防のため国家間の移動が

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