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「リク、もうやめる! もういい!」
『大丈夫だよ、昴。このまま力いっぱいペダル踏めばすぐにまっすぐ進めるから』
「できないよぉ、無理だよぉ」
『大丈夫。昴ならできるよ』

 時は流れ、昴はすくすくと育ち五歳になっていた。すくすくと成長している昴は、最近ではリクや友達と自宅の庭や公園で遊びまわるのを好むようになった。
 この日、補助輪なしの自転車に乗れるようになりたいから、公園で練習すると言い出したのは昴の方からだ。
 先々月に祖父母から真新しい自転車を買ってもらったことや、幼稚園のクラスで自分だけが乗れないのを知ったことなどがその理由だった。
 乗れなきゃかっこ悪いから恥ずかしい……他人の出来ることができないということを人一倍気にする質(たち)らしい昴は、リクに頼み込んで公園で自転車の練習をしていた。
 休日は父親の空も練習に付き合うと言ってくれたのだが、昴はたいていの場合空よりもリクを選んだ。
 リクは昴の申し出を快く引き受け、この日も幼稚園から帰ってから数時間、練習に付き合ってくれている。
 しかし、一向にふらつく車体を怖がってスムーズに自転車をこぎ出せない。
 だからと言って、思い切って漕ぎ出して転ぶこともカッコ悪くて痛いから、と怖がる昴の進捗状況は数時間を経ようともあまり進歩がないように思えた。
 それがまた、物事を過剰に気にする彼の自尊心に障るのか、何度も挫けかけて昴は弱音を吐くのだ。

「やだぁ、もうできないよぉ」

 だが付き添っているリクは、練習を投げ出すことも怒り出すこともなく、根気強く、『昴、さあ、もう一回やってみようよ』と、やさしく言葉をかけてくれた。それはやはり肉体的な疲労を感じないシッターロイド故なのか。
 リクの根気強さと、昴の弱い性根のせめぎ合いが続いている状態だった。

(――リク、ぼくに、″なんでできないんだ!″って怒ったりしないのは、やっぱりシッターロイドだからなのかな……)

 それをやさしさと捉えて甘えたい自分と、でも……と、一方で足を止めた昴の脳裏に、先日のクラスメイトの言葉が過る。

「シッターロイドと遊ぶなんて赤ちゃんがすることだよな。ゲームだってなんだって手加減してくれるんだもん。兄ちゃんなら、本気でやってくれるもんな」

幼稚園に通っている時間以外の殆どをシッターロイドであるリクと過ごす昴にとって、それはかなり衝撃的な言葉であった。
昴には兄弟がいない。その代わりとしてのリクの存在もあるのであろう。
少子化問題が顕著になって久しい昨今、昴のように兄弟代わりにシッターロイドを遊び相手にする子どもは少なくないのだが、それでもシッターロイドと遊ぶこと=赤ん坊のすること、という偏見が子どもの中にあるのだろう。

(――僕、やっぱりまだ……赤ちゃんなのかな……だから、リクにも甘えちゃうし、自転車にも乗れないのかな……)

 渦巻く感情と言葉に、昴の視界が更に滲んでいく。
 自転車に乗れないことと、何事もシッターロイド頼みの自分が赤ん坊のようなものだと感じてしまうこと。別々であるはずの事柄が、沈んだ昴の感情の中でぐちゃぐちゃに入り混じっていた。

(――リクが僕にやさしいのは、きっと、シッターロイドだからなんだよね。ぼくが、マスターだから、お仕事でこうやって練習してくれてるんだよね…。でも、僕はもう赤ちゃんじゃないし……その内、ぼくのお世話しなくてよくなっちゃったら……リクは、きっと……)

 脳裏に過った自分の言葉に、昴の視界が滲んだ。赤ちゃんでなくなったら、世話をする必要がなくなったら、いつかリクは自分の許から去ってしまうのだろうか。

(――そんなの、いやだよ……リクが、お兄ちゃんだったら、よかったのに……)

 もしリクが本物の兄であれば、きっとずっと傍にいてくれるのに……そんな想いが渦巻いて、ペダルを踏む足が止まってしまった。

『昴? どうしたの? 疲れちゃった?』
「……なんて……なんだ……」
『昴?』
「ぼくなんて……リクがいなきゃ何もできない、赤ちゃんなんだ……だから自転車も乗れないんだ……」
『昴、どうしたの、そんなこと言いだして……ほら、自転車やろうよ』
「リクがぼくといてくれるのはシッターロイドだからなんでしょ? お兄ちゃんだからじゃないんでしょ? お世話する仕事だから、一緒にいるんでしょ?」
『そりゃまあ、そうだけど……でもなんでそれが、昴が赤ちゃんなことになるの? それと自転車乗れないのは関係がな……』
「でも、でもぼくが赤ちゃんみたいにお世話要らなくなったら、リクはもういなくなっちゃうんでしょ?」
『それは……』
「ぼく、自転車乗れるようになりたい。でも、そうなっちゃったら、リク、いなくなっちゃう……だって、本当のお兄ちゃんじゃないから……」
『……昴』
「なんで、リクはお兄ちゃんじゃないの? ぼく、リクがいなくなるの、イヤだ!!」

 赤ん坊から幼児へ、幼児から少年へと成長の段階を踏んでいくにあたって、シッターロイドの必要性の有無を問う壁に行き当たることが多々ある。
 生活全般に手助けがいる年齢から、基本的な事は自分でできるようになってくる年齢に成長する頃になると、マスターである子ども自身が自立心の芽生えから、シッターロイドを疎んずることもなくはない。先程の昴のクラスメイトの言葉も、それを表すものとも言える。
 シッターロイドはその名の通り子どもの世話を主に担ってはいるが、それだけでなく、子どもの警備も請け負っている面も少なくない。
 特に両親ともに家を空けがちなことが多い昨今において、シッターロイドは子どもの安全保障の一役を買っているとも言える。遊び相手や勉強を見たりもするが、それはついでの事柄に近い。
 しかし安全対策で傍にいる事が、自立したがる子ども本人にすんなり受け入れられやすくない事柄でもあり、こうしていまの昴のように自尊心との狭間に揺れてしまう場合もなくはない。
 自転車に跨ったまま泣き出した昴の姿を見つめながら、リクはふわりと困ったような表情で笑い、そっと昴の頭に手を宛がった。

『そうだね……昴はもう、春には小学生になるお兄ちゃんだもんね。俺の手伝いなんていらないかもしれないね』
「じゃあ……もう、リクと、バイバイなの? 赤ちゃんじゃないから?」

 夕陽の射してきた公園の広場の真ん中で、赤く染まりながら泣きじゃくる昴の頭をやさしく撫でながら、リクは目線を合わせてこう言った。

『そう、昴は赤ちゃんじゃない。ご飯も一人で食べられるし、着替えも歯磨きもできる。でもね、昴。だからって昴をひとりぼっちでお家で留守番させられるほど、世の中は安全じゃないんだよ』
「……ど、ゆこと?」
『昴がひとりでおうちにいる時に、もし怖いことが起こったらどうする? 怖い人が突然きたり、火事が起きたり、地震が起こったりしたら』
「怖い……わかんない……」
『だからね、俺がいるんだよ。昴を守るために、ママとパパから頼まれてるんだ。自転車の練習だって、ひとりじゃできないでしょ?』
「ぼくが赤ちゃんだから、じゃなくって?」
『昴がもう赤ちゃんじゃないのは、ママとパパだって知ってるよ。でも、まだなんでもひとりきりにさせるには心配だから、俺がいるんだよ』
「……リクは、ぼくを守ってくれてるの?」
『うん、守るよ。約束する。昴がもういいよって言うまで、ずっとそばにいるよ』
「それ、赤ちゃんだから、じゃない?」

 リクの言葉を確かめるように訊ねる昴に、リクは大きく破顔して、『もちろん、赤ちゃんじゃないよ!』と、告げると、“彼”のちいさなマスターは堰を切ったように声をあげて泣き始めた。まるで無意識の内に抱いていた不安から解放されて安心したかのように。
 昴は、自分がもう赤ん坊のようでないなら、リクはもう間もなくお役御免にしなければと考えていた。
 兄であれば傍にいてくれるだろうけれど、自分の世話をするという仕事がなくなってしまえば、いつか“彼”は自分の許から去ってしまうものだろうだから、と。
 しかしそれは昴にとって大きな不安だった。
 同時に、リクに傍にいて欲しいと願う事は、赤ん坊のようなのではという自尊心もあり、昴は自分の感情をどう抱いていいか戸惑っていたことも大きかった。傍にいて欲しいと願っていいのか、否か。
 彼の不安を汲み取る様なリクからの言葉を受け、昴は大いに安堵していた。あふれる涙はその証だった。
 昴のように自尊心の強さからシッターロイドを拒む子どもも少なくなく、安全面のためから必要な存在だと説得をして渋々受け入れてもらうケースもある。
 それでも拒む場合もなくはなく、その場合はシッターロイドではなく、セキュリティに特化したアンドロイドに取って代わられる。
 しかしそうなった場合、シッターロイドのようにきめ細かいケアサービスが受けられることが減ってしまうこともあるため、子どもにはシッターロイドが安全対策で付けられることが多いのだ。
 言わば、自分の契約解除の危機に瀕していたとも言えるリクであったのだが、長年の経験と学習により上手く対処してその危機は回避できたとも言えた。
 泣き止んで再び自転車の練習を始めた幼い背中を見つめながら、リクは心なしか安堵しているのに気づいた。
 安堵――それは、アンドロイドにとって危機管理能力を鈍化させかねないものだと、リクは基本動作の中に組み込まれていた。だから、常に緊張感をもって任務に臨むこととプログラミングされている。
 しかし、より人間に近づけられた“彼”もまた、人のように慣れてしまえば感覚が鈍化をするのかもしれない。リクは、安堵したことに違和感を覚えなかったのだ。
 昴が自分といられることを喜んでくれたことは嬉しいと感じていた。
 しかしそれに安堵していることにも、リクは危機感よりも喜びを覚えたのだ。そして、それに違和感すらなかった。
 何故なら今リクが受け取ったのは、マスターである昴に必要とされていると感じられる、“彼ら”にとっての最大の報酬だからだ。

(――うーん?……今度、空さん達に頼んでメンテに出してもらおうかな……)

 違和感を覚えなかったことに秘かに驚きつつも、リクはわが身に起こったちいさな事象をそう判断する程度に冷静ではあった。
 今はただ、目の前のちいさなマスターが喜んでくれるのであればそれでいいと思えていたから。


 茜色が辺り一帯を包む頃、よろよろと頼りない軌道で昴はひとりで数メートルほど自転車をこいで進むことができるようになっていた。

「リクぅ! 見て、見てぇ!」
『そうそう、上手いよ! そのまま真っ直ぐ!』

 夕焼け色に染まるちいさな背を見守りながら、リクは彼と重ねてきた日々を思い返す。
 昴が初めて歩いた時や、一緒に駆け回った時、幼稚園に初めて行く日にリクにしがみついて泣いていた時などを。
 大きくなったなぁ、昴……瞬時に脳内に映し出すことができるメモリーも映像もあったけれど、あえてそれよりも儚く朧な振り返りをしていた。その方が、ずっと鮮明に思い描ける気がしたからだ。

(――こういう振り返りも、悪くはない、ね……記録には残らないけれど)

 誰も知ることのない景色と記憶を秘かに振り返りながら、リクは“彼”のちいさなマスターと並んで帰路についた。

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