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第8話 うちの上司が屁の役にも立たないんですが

「鯰って、あのナマズ? ぬめっとした奴?」結城が自分の体の周りを自分の両掌で撫でおろし、あたかも自分自身がぬめっとしているかのような表現をした。
「はい」天津は尚も周囲を気にしながら答える。「まあいってみれば、スポークスマンのような存在です」
「スポークスマン?」時中が、特にジェスチャーを交えるでなく質問した。「誰の? ……というか、何の?」
「地球のです」天津の答える声にはすでに、先程「やってみせます」と半ば叫んだ時のような張りもボリュームも失せていた。
「地球の、代弁者ですか」時中が確認し、
「はい」と天津が確定する。
「では今の『キャパオーバー』というのは、地球さまが仰った言葉だというのですか」本原が自分の胸に握り拳を当て質問した。
「いや、今のは多分、鯰の個人的な意見でしょうね」天津は苦笑した。「地球さ……地球がこんな瑣末なことに口出ししてくることはないですから」
 地球さま、と言いかけたところをみると、天津という男は人の影響を受けやすい、別の言い方をすればあまり確固とした“我”を持たない――少なくとも主張しないタイプの人間なのかも知れなかった。人間、だとしたならば。
「喋るナマズさま?」結城が叫ぶ。「あ、違った、喋るナマズ?」
 ナマズさま、とはっきり言ってしまったところをみるにしても、結城という男が“我”を持たない――少なくとも主張しないタイプの人間なのだとは誰一人思わなかった。人間、だとしたならば。
「はい、喋ります」天津は頷く。
「喋らなければ“スポークスマン”にはなり得ないだろう」時中が微かに鼻で笑いながら指摘する。
「けどナマズって」結城の声が裏返る。「魚じゃないの。魚が喋るって、変じゃないの」そして女言葉になる。
「今更、何が変なのかという話だ」時中は更に鼻で笑う。「大方これも“ヒエロファニー”の一つなのだろう」
「というか」答えたのは本原だった。「鯰の妖精なのだと思います」
 他の三人の男たちは、本原の意見に答えることができなかった。
 鯰の、妖精――“鯰”と“妖精”それぞれが持つイメージ、特に視覚に訴えるそれぞれのイメージが、三人の男たちの中ではどうあがいても符号し得なかった。鯰が妖精であるわけもないし、妖精もまた鯰になり得るとはどうあがいても思えないのだった。三人の中で符号し得ない情報は、カオスを構築する物質としてしか認識できず、それは平たくいえば
「そんなバカな」
としか、言葉に表し得ないものだった。
「ま」それはともかく天津は、研修担当として研修を先に進めなければならなかった。「まあ、そういった存在もいる、ということだけ知っておいてもらえればいいです。それじゃ説明の続きです――って、どこまで説明してましたっけ」
 無精髭の男は気弱げに笑う。
 ――また、エビッさんだな……
 気弱げに笑いながら、無精髭の研修担当は心中で苦虫を噛み潰していた。
 ――たく……頼むよー。

     ◇◆◇

「あふ……?」恵比寿は眠りから醒め、第一声をそのように発した。「……ああ……」
 そうか。また、酒に酔い潰れて寝てしまったのだ。
「……あー……」
 これは。
「……………………」
 しまった、……な。
 ふう、と頬を膨らませて溜息をつく。
 また、どやされるに違いない。
「……咲ちゃんにな」
 大山や天津はまだ、多少大目に見てくれる所があるのだが、木之花に甘えや期待は通用しない。あの、眼を細めて睨みつけてくる顔がもう見えている。
「それに大体若い者ってのは、若けりゃ若いほど自分に存在価値があるって信じて疑わないのよ」
 突然、鯰が大きな独り言を喋りながら恵比寿の陣地へ戻ってきた。
「あ」恵比寿はただ一言、というよりもただ一声、発した。
「社会に出る前の子供は、自分に大きな価値があり他に対する大きな影響力があるんだって当然のように思ってる」言いながら鯰は、鯰用にと作られた池の中を泳ぎまわる。「けれど社会に放り出されて一年また一年と年月を重ねるうち、思っていたほど自分には大きなインパクトも、世に与える影響力も、実はないんだってことを思い知らされていく」
「どこ行ってたの」恵比寿はぼそぼそと質問した。
「散歩」鯰はただ一言答える。
「もー」恵比寿は鯰を叩くような手振りをする。「頼むよー。俺が怒られるんだからさ」
「じゃあ怒られないようにしっかり見張っときゃいいのよ。自分の職務怠慢を棚に上げて『頼むよー』もへったくれもないってもんよ」鯰は立て板に水といった体でまくしたてるが、いつまでも喋り続けるということはせず、すっと物言いに幕を引く。
「――そんで、どこ行ってたの」恵比寿は首を引っ込めるようにして訊いた。「なんか、……見た、の」
「――」鯰はすぐには答えなかった。

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